平和だ。





俺の日常は本当に何も嫌な事がなく平和な毎日だ。



多分、いやかなりの確率で俺はこのまま何も大きな事件に巻き込まれることも無く、平和に暮らして生涯を終えるだろう。



本当に毎日まったく嫌な事がない。



それはなぜなら他人との集団生活をしてないからだ。



ド田舎の山奥で毎日の寝食の心配をする事もなく、他人との集団生活では必ず巻き込まれるであろう人の妬みや嫉妬の嵐に巻き込まれることもなく、ただただ、植物のように毎日そのままの心で暮らしている。



普通は他人と関わると必ずと言っていいほど嫌な事があるはずだ。なぜなら自分の考えとは違う考えの人が集団の中には必ずいるからだ。だから、他人と一緒に過ごすうちに必ず意見がぶつかる時が来る。



つまり他人と関わるということはストレスと隣合わせという事だ。



俺は孤独を選んだ対価として、そんなストレスとは無縁の生活をしている。



しかし、当然ながらこれは両親のおかげだな。俺1人だったら今頃は毎日のように嫌な思いをして、他人にお金を渡す生活を続けていただろう。



俺は本当に気が弱くキングオブ気弱なのだ。気弱の星の下に生まれた気弱のエリート中のエリートと言っていい。



なんというか、俺は自分に何か嫌な事があっても、よっぽどじゃないと相手に文句を言わない。人と揉めるぐらいなら自分が我慢する方を選ぶ。



その方が平和だからだ。



あれれ?



他人と接してても平和な日々は作れるのか?



もちろん、相手が崖から落ちるぐらいの危険で間違った事をしようとしてたら揉めるのを覚悟で絶対に止めるよ。例えば親戚のシングルマザーの女性の苦労して大学に進学させた顔面ホームベースで5頭身の娘さんがある日突然「私、モデルになりたい!大学も辞める!私、パリコレを目指す!!」と、突然カンボジアの地雷原を目を閉じゴキゲンにスキップしながら渡るような事をしようとしてたなら、さすがの俺も言葉をオブラートに包みながらこう言うはずだ。



「まぁまぁアヤちゃん、がばい農園のどくだみ茶を飲みながらお話しないかい?いいかい?ミジンコっているでしょ?彼らは無脊椎動物といって、ミジンコ以外の何者にもなれないんだよ。同じ水中の魚にもなれないし、もちろん空を飛びたくても鳥にもなれない。ミジンコがいくら努力したってミランダ・カーのようにパリコレには出れないんだよ。分かったかい?つまりアヤちゃんではパリコレに出るなんて絶対に無理!身の程を知れ!!」



しかし、人から否定的な事を言われると嫌な気持ちになる人が多いだろうから、よっぽどの事がない限りは相手を批判するような事は言わないようにしてる。



でも、それって人として優しいのか?



いや決して優しくない。人間的には冷たい人間だ。



そもそも人を怒るって本当にパワーがいる。



親が子供に何かと口うるさいのは愛があるからだ。



親の方が子供より長く生きてるから、絶対に人生で間違った道を歩いたことがあるはずだ。だから、自分の子供が間違った道を進もうしてたら親は事前に分かるのだ。



自分が歩いて失敗した道だったら、なおさら失敗した時の苦しみが分かる。



だから、口うるさくなるし、子供が間違った道を進もうとしてたら本気で注意をし怒る。



過去の自分のように失敗して痛い思いを子供に経験してほしくないからだ。



だから、愛は口うるさいのです。



ならば俺に愛はないのか?



人と揉めたくないから嫌な事があっても我慢をして、偽善的な平和の維持に精を出す俺。



愛情深くないから人との摩擦を避け、たった一度の人生を毎日平和に何もなく過ごしてる。



そう、本当に一度きりの人生の時間が毎日何もなくそよ風のように簡単に過ぎ去って行ってるのをただ見てるだけの日々。



その結果、他人と切磋琢磨する人生の摩擦がないから俺の人生が過ぎ去った後には何も残らない。



でも、そんな何も残せてない今の俺でも心が動く時もある。



最近、海外で空爆を受けて体中が傷だらけで涙を堪えてる赤ちゃんの動画を見た時、戦争への怒りで勢いのままに文章を書いてたが、それを書くのを途中で止めた。



赤ちゃんって、普通は泣くのが仕事だろ?



なんで、そんな赤ちゃんが傷だらけで涙を堪えてるのか?



もしかしたら今泣いたら、もっと痛い目に合うんじゃないかと赤ん坊ながらに考えて、必死に涙を堪えてるのではないかと思ったら、俺は居ても立ってもいられなくなって、なんとか自分に出来ることをしたいと思って文章を書き始めたのだ。



しかし、途中で書くのを止めた。



なぜなら、文章を書くだけで、そこから俺は何もしないからだ。



どこかにお金を寄付するわけでもなく、自ら先頭に立って戦争反対の運動をするわけでもなく「自分は正義感溢れる良い人間ですよ!」そんな事をアピールするためだけに俺は文章を書いてるのだと途中で気付き我に返ったのだ。



今の自分は一切の命の危険もなく、そんな安全な所からの一時的な怒りや同情からの言葉など偽善でしかない。



ストレートに心の中を書くと「自分は毎日空爆の危険にさらされる事もなく安全で良かった!」と毎日必死で生きてる人たちの境遇と自分の境遇を比べて安心してるのだ。




「あんな危険な国に生まれなくて良かった!」と…




そんな邪な自分の偽善に気付いたから、俺は記事を書くのを途中で止めたのだ。



そもそも俺の思う平和とはなんなのだ?



毎日寝る場所の心配も食べる物の心配も無く、人間関係のストレスを排除して、毎日そよ風の如く時間が過ぎ去って行く毎日が平和なのか?



しかし、その状態を別の言葉で言い換えるなら、自分が努力して作り上げた環境でもないのに、そこに逃げ込んで毎日を無駄に過ごしてる日々とも言える。



タイトルを「平和ボケの中心から平和を語る」にしようと思って書き始めた今回の記事だが、俺の中の平和の定義が間違っていた。



平和とは人間関係のストレスが無く、そよ風のように毎日が簡単に過ぎ去ることではなく、人とぶつかりあってでも、人と関わり妥協点を見つけ、お互いの人生の足跡を残して行く日々が平和な人生なのだと思う。



そして、偽善でもいい。



今も日々の寝食の心配があり、命の危険にさらされてる人々を忘れない事。



苦しんでる人たちの事を忘れて何も思わない、何も書き記さない事こそが罪だ。




そして、俺はこう書き終わる。




偽善の自分の心を知った上で、世界中の全ての人々の平和を祈る。