題名のこの言葉、

ブログ界隈でよく見かける。



それに対して物申すつもりは

まったくないのだけど。



自分が思うに。



物事に執着しない心持ちって、

結局行き着くところ

『自分を信じる』ってこと

なんじゃないかなと思う。



たとえば。



自分の身に何が起きても、

立ち向かうとか

うまくかわすとか

逃げるとか

時が経つのを待つとか



なんとなく何らかの手段をとって、

とにかく自分はなんとかなる

なんとかなってる



とか、



自分がどんな境遇に遭っても、

自力で何とかするとか

人に助けを求めるとか

逃げるとか

時が経つのを待つとか



なんとなく何らかの手段をとって、

とにかく自分はなんとかなる

なんとかなってる



とか、



仲良くなりたい人と

たとえ離れ離れになっても、



もっと素敵な出会いがあるとか

ひとりでも幸せでいられるとか

ひとりになる時間が必要だとか



むしろ離れ離れになって良かった

と、時を経て気づいたりとか。



とかとかとかね。



そんな風に、自分を信じる。



自分に迷いがなくて、

ベクトルが目標地点を目指して

一直線に突き進む!



そんな時はきっと、

目の前の出来事に夢中で真剣で

何も思い悩むことがなくて。



思い悩んでしまう時はきっと

失速したり

霧が立ち込めたり

道に迷ったり

障害物が立ちはだかったり、

自分や大切な人が

傷ついたり傷つきそうになった時。



そんな時、

何かにすがりたい気持ちに

なってしまう。



自分に自信が持てなくて

自分が力不足に感じている分を

人に補ってほしいと期待してしまう。



傷を舐め合えたり

慰め合える相手に出会えたり



自分の力が必要だと思えるものに

自己犠牲を払って

見返りを求めてしまったり。



それが世に言う

『執着』なのかなと。



でも本当は。



自分に自信がないだけで。



自信がないだけ。



本当の自分は



自分の力で幸せでいられる

自分を幸せにすることができる



自分は自分が望む道を

選んで進むことができる



いや、案外意外にも



意図せず結果的に

望ましい方向へ物事が進んでいた



そんなこともあるかもしれない。



ふと。



成りゆきに任せていたはずなのに

自分が自分の手を引いて

この場所へ導いてくれたのかな



時に、

そんな風に思うことがある。



そんなことが度重なって

いつの間にかそんな風に



なんとなく

なんとなくね。



『自分を信じる自分』の

いっちょあがり。



でも、ほんの少しだけ

私は思う。



執着を完全に手放すって

ちょっと寂しい。



だから私は

自分を信じつつも



少しだけ意識して

人や物事に執着している。