はじめに
福岡市中央区唐人町に福岡市立当仁小学校がある。この小学校は唐人町(とうじんまち)にあるが、校名の「当仁」の読みは”とうじん”ではなく”とうにん”である。一方、同じく中央区福浜にある福岡市立当仁中学校と中央区鳥飼にある福岡市立南当仁小学校の「当仁」は、”とうにん”ではなく”とうじん”なのである。福岡市中央区にあるこの三校は、何れも校名に同じ「当仁」という文字を冠しているが、その読み方が異なるのである。
三校とも校名の「当仁」は、『論語』の一節「仁に当たりては、師にも譲らず(當レ仁不レ讓二於師一)」に由来するとされている。そして、戦後は「仁」を”にん”と読む事が表外読み(常用漢字に無い読み方)となった為、戦前からある当仁小学校(明治6年開校)では”にん”、戦後に出来た当仁中学校(昭和24年開校)及び南当仁小学校(昭和31年開校)では”じん”と読むのだという。
- 参考記事
しかし、諸説ある校名の由来は何れも出鱈目で、実際には当仁小学校の「当仁」は唐人町(とうじんまち)の地名を捩ったものであり、読み方も本来は”とうじん ”で「とうじんしょうがっこう」であったとしたら──。
読者の中には、当仁小学校の校舎に掲げられた校名に「とうにん」とふりがなが振られている事や、当仁小学校前の交差点の道路標識にローマ字で”Tonin”と表記されている事を挙げ、反論される方もおられるであろう。
実際、上に掲載したGoogleマップでもそれらは確認でき、一目瞭然である。その為、この様な話しは荒唐無稽だと思われるかも知れない。
(ちなみに、福岡市の町名等に英語表記が併記される様になったのは、平成元年の「よかトピア」以降である。)
だがしかし、実はいつの間にかに「当仁」の読みが”とうじん”から”とうにん”へと変わっているのである。ところが、校名の読みを”とうじん”から”とうにん”へと変更したという事など、当仁小学校の学校沿革を始めどこにも記されてはいない。変更に至る何らかの理由があった筈だが、重大な出来事であるにも関わらず、その形跡が一切見当たらないのである。その為、先述した”仁の表外読み”を理由に、当仁小学校は昔から”とうにん”と読まれていたのだと思い込んでいる人も少なくない様に思われる。
本稿では、独自の調査と複数の証言を基に、当仁小学校の校名に秘められた「謎」の真相に迫ってみたい。
当仁小学校卒業生たちの証言
証言1:私の父(戦前生まれ)
私の父は戦前生まれで、戦後間もなく当仁小学校に通い卒業し、そして当仁中学校にも通い卒業している。そんな父が自身の昔話をする際、当仁小学校の事を”とうじん”と言うのだが、私はこれまで特に気に留めたことはなかった。しかし、最近も父の昔話を聞いていた時にふと疑問に思った。父の話しは今から80年近く前、大昔の話しだが、叔父叔母(父の弟妹)も当仁小・中学校の卒業生である。高校・大学時代もずっと同じ実家暮らしだった父が、いくら高齢だからとはいえ、”とうにん”と”とうじん”を勘違いするだろうか、と──。
そこで私は、父以外の当仁小学校の卒業生にも話しを聞いて確認したいと考えた。もし父の言う通り、当仁小学校の「当仁」が昔は”とうじん”であったのなら、”仁の表外読み”を理由にした話しは完全に矛盾する事になる。その事が、私の探求心を強く刺激した。
余談になるが、父の時代の当仁小学校は、1クラス45~6人で1学年6クラスあり、兎に角生徒数が多かったという。その為か、卒業アルバムのクラス写真は、他のクラス分はなく本人(父)のクラスのみとなっている。叔父(父の弟)が当仁小学校に通っていた頃には、南当仁小学校と分離し(昭和31年)、当仁小学校の生徒数は激減していたという。
証言2:私の父の親友で幼馴染
私の父の友人の殆んどは既に他界してしまったが、ひとりだけ、父の親友で幼馴染の方がまだ健在である。父の話しを聞いてから数日後、私は早速その方に話しを伺う事ができた。この方も父と同じく当仁小・中学校の卒業生であり、父が子供の頃に一緒に遊んだというこの方の兄もまた、当仁小・中学校の卒業生である。そんな父の親友に、私は少し興奮気味に質問を切り出した。すると父の親友は、「昔は”とうじん”今は”とうにん”と呼びよるね。」と言って、やはり昔は当仁小学校の事を”とうじん”と言っていたと話してくれた。但し、いつ頃から”とうにん”と言う様になったのかまでは分からないとの事であった。
もし私が当仁小学校について調べる事があと数年遅れていたら、生き証人である父と父の親友への聞き取りが不可能になっていたであろう。貴重な証言を得た事で、私は何としてもこの謎を解明したいという思いを強くした。
証言3:旧福岡士族・安部磯雄(政治家)
資料を探す中で、決め手になり得る極めて貴重な証言を発見した。福岡城下の新大工町(今の福岡市中央区黒門)生まれの旧福岡士族(家禄二百石)で、日本社会主義運動の先駆者、政治家として社会民主党の党首を務め、そして早稲田大学野球部の創設者として「日本野球の父」とも称される安部磯雄の自叙伝『安部磯雄自叙伝 社会主義者となるまで』(改造社発行/昭和7年2月12日出版)である。
有難い事に、この自叙伝は全文ルビ付きで記述されており、安部磯雄が当仁小学校に通っていた当時の話しに私の通ふた小學校は私の家から極めて近い當仁小學であつた。學校の位置は唐人町に在るのであるけれども、唐人小學校では變だから、文字だけは當仁に改めたものらしい。
と校名について説明している。前記した様にこの自叙伝は全文ルビ付きである。「當仁小學」は”たうじんせうがく”、「唐人町」は”たうじんまち”、「當仁」は”たうじん”と、全てにルビが振られている。”たうじん”とあるがこれは旧仮名遣いであり、新仮名遣いでは”とうじん”となり、発音は新旧共に同じである。
安部磯雄は幼少期、毎日『論語』の素読を祖父から教えられていたという。小学校の授業内容があまりにも簡単であった為、それを知った祖父が「学校ではそんな馬鹿な事を教えるのか」と大いに憤慨した事も自叙伝に記している。もし当仁小学校の校名の由来が、本当に『論語』の一節「當仁不讓於師」に基づくものであるならば、日頃から『論語』の素読に親しんでいた安部磯雄は、その様に記憶していた筈である。
また、別の資料として『帝国教育 十月十五日 第六百十二号』(帝国教育会発行/昭和7年10月出版)には、安部磯雄の「学校時代の思い出」が掲載されており、そこには私が初めて當仁學校に入學者したのは九歳の時であつたと思ふが
(原文の儘)と記されている。この本の中で、安部磯雄は慶応元年(1865年)2月生まれと称しているが、正確には元治2年(1865年)2月4日生まれであり、当仁小学校に入学したのは明治6年(1873年)開校の翌年という計算になる。
安部磯雄の証言は、當仁小学校の校名が地名の「唐人」を捩った同音異字の「當仁」の文字を当て、開校当時から「とうじん」と読まれていた事を明確に示す、極めて貴重な証言であり史料である。
証言4:中上陽介氏(インスタ動画)
当仁小学校に関する資料や証言を探す過程で、当仁小学校は昔は”とうじん”と言っていたと証言する動画が、インスタグラムに投稿されているのを発見した。
動画の投稿者である中上陽介氏本人は、当仁(とうにん)小学校の卒業生である。更に、中上氏の父親とその三兄弟も当仁(とうじん)小学校の卒業生であり、加えて祖父母が当仁(とうじん)小学校の教員であったという。三代に渡り当仁小学校との関わりを持つ家庭であり、その証言はとても貴重である。
中上氏は動画の中で、僕のお父さんが通っていたのは戦後ですよ。戦後に”とうじん”小学校だった時代があったんですよね。お父さんと僕の年の差って定かではないですけど…27歳ぐらい離れている筈なんですよね。
(一部抜粋)等と語っておられる。中上氏の話し方や言葉遣い等から判断すると、私よりもお若く見受けられる(尚、私自信は実年齢より若く見られる事が多い)。私は父とは30歳以上年が離れており、中上氏の父親の年齢は私の父よりも確実に下であると考えられる。この事からも推測すると、中上氏の祖父母が当仁小で教員を務めていた時期は、戦後間もない頃から昭和30年代頃までの間であろうかと思われる。
中上氏の証言は、戦後においても当仁小学校が”とうじん”と呼ばれていた時代が存在した事を裏付けるものであり、先に挙げた証言を補強する上でも重要な材料である。
昨年2月25日放送の『地元検証バラエティ 福岡くん。』(FBS福岡放送)「みんなのギモン放送SP」では、”福岡市中央区唐人町にある学校「読み方ややこしすぎ問題」”と題し、当仁小学校の「当仁」は”とうじん”ではなく”とうにん”であるという内容が放送された。中上氏がこの動画を投稿したのは、その放送内容が事実と異なるとして問題提起する目的であったと考えられる。筆者である私自身も、過去に同番組で放送された”博多の博の点がやばいことに”という放送回について、ブログ(『「博多」の「博」は点なし?福岡くんで問題に!』)において、調査不十分のまま”博多っ子”を貶める内容になっている事を指摘した経緯がある。その経験からも、『福岡くん。』には、その放送回と合わせて当仁小学校に関する回についても、十分な史料と証言に基づいた再検証を行い、改めて放送し直す事を強く望んでいる。
証言から分かること
前節「はじめに」で触れた”仁の表外読み”の話しが正しければ、当仁小学校の「当仁」の読みは、今も昔も”とうにん”であった事になる。しかし、安部磯雄の証言により、當仁小学校の校名は地名の「唐人」を捩った同音異字の「當仁」の文字を当て、開校当時から”とうじん”であった事が明らかとなった。更に、私の父たちの証言からも、当仁小学校は戦後も”とうじん”といった時代があった事が分かる。少なくとも、明治6年の開校当初から戦後間も無い昭和20~30年代までは、”とうじん”と言っていたと考えて差し支えない。実際にはもっと後まで”とうじん”であったと考えられる。
以上4件の証言により、”仁の表外読み”の話しは完全に矛盾しており、出鱈目であると言わざるを得ない。但し、これだけでは十分とは言えないので、私は更に調査を進める事にした。
当仁小学校の歴史
当仁小学校の歴史について、ここで概略を整理しておく。あくまで概観ではあるが、調査を進める中でこれまで殆んど知られてこなかった事実も判明した為、以下にまとめる。
学校沿革
明治5年(1872年)に政府が学制を発布し、翌明治6年(1873年)2月25日に福岡部の「浪人町(ろうにんまち)」に「当仁小学校」(旧字体で當仁小學校)は開校した。当時の生徒数は156人程であった。しかし、同年6月に発生した『筑前竹槍一揆』の暴徒により校舎が破壊され一時閉校となるが、翌明治7年(1874年)7月に授業を再開している。
明治11年(1878年)8月26日には二階建て校舎を新築。竣工までの間は、近隣の吉祥寺及び教員自宅において授業を継続。当時の生徒数は123人程であったという。
明治19年(1886年)4月に政府は教育令を廃して小学校令を発布。同年10月に「当仁尋常小学校」(旧字体で當仁尋常小學校)となる。明治25年(1892年)6月30日に荒戸と西街の両尋常小学校及び荒戸と当仁の両簡易科が当仁尋常小学校に合併。現在の当仁小学校は、これらの学校を合併して一校を改築し(同年12月25日竣工)、明治25年(1892年)7月1日に創立されたものである。尚、現在の当仁小学校はこの年を創立年としている。
昭和10年には、青年学校令により本科5年の當仁青年学校が設置されたが戦後に廃止。戦時体制下の昭和16年(1941年)4月には、国民学校令により「福岡市当仁国民学校」(旧字体で福岡市當仁國民學校)へと改称。
昭和20年(1945年)の終戦直後に「福岡市当仁小学校」へと改称。昭和31年に当仁小塩屋分校が南当仁小学校として独立。そして現在に至るが、その後いつの間にか「当仁」の読みが”とうじん”から”とうにん”へと変わっている。
(※校名の読み方や改変時期、旧町名については後述する。)
当仁小学校が誕生したのは、明治22年(1889年)の『市制施行』によって福岡市が発足するよりもずっと前の事である。財政難から「太政官札贋札事件」を起こした福岡藩が、『廃藩置県』により廃藩となり福岡県となってから、まだ一年半程しか経たない時期であった。当時の福岡県は、現在の県境とは異なり、今の北九州と筑豊地区にまたがる小倉県(旧小倉藩・旧中津藩の一部)や、筑後地方の三潴県(旧柳河藩・旧久留米藩・旧三池藩)が福岡県に統合される前であり、政治・経済の両面で不安定な時代であった。
- 備考
- 福岡部とは、旧福岡城下、即ち総構である福岡城の外郭内と一致する範囲を指す。同様に博多の町(今の博多区の一角に過ぎない地区)を博多部という。福岡部は、堀より北の外郭内で、東は那珂川から西は今川橋が架かる樋井川まで(築城当初の西端は黒門川まで)で、概ね旧薬院川(通称・泥川)より北側の範囲。尚、この旧薬院川は、昭和23年に福岡市で開催された第3回国民体育大会に併せて埋立て整備され、現在は国体道路という愛称で呼ばれている。現在の福岡市中央区の北側半分程の範囲が、福岡部に相当する。『筑前國風土記』によれば、城内東丸(旧高等裁判所跡)の西の石垣の下は早良郡に属し、東は那珂郡に属す。城外は、簀子町より西の方は早良郡、東は那珂郡に属す。つまり、福岡城は早良郡福岡と那珂郡福岡の二つの福岡にまたがっている。
尚、当仁小学校及び合併した西街小学校とその前身たる草香小学校などの詳細な成立過程については、本稿では省略する。詳細については、『福岡市学校教育八十年誌』(福岡市教育委員会/1955年出版)や『福岡県教育百年史』(福岡県教育委員会/1980年出版/全七冊)等に詳しく掲載されている。その他、『福岡県教員養成史研究─戦前編』(平田宗史著/1994年出版)、『福岡市史』等、関心のある方は参照されたし。
開校の地は浪人町
明治6年(1873年)に当仁小学校が開校した浪人町(ろうにんまち)という町名の由来は、浪人が住んでいたからという話しもあるがはっきりとは分からない。開校当時の地が「浪人町有馬数基」とあったので”有馬数基”について調査したところ、『黒田三藩分限帳』の中の慶応分限帳に弐百五拾石 山岡才兵衛(有馬数基) 浪人町
との記載が確認できた。当仁小学校は、この旧福岡士族・有馬数基(山岡才兵衛)が居住していた武家屋敷が空き家となっていた為、その敷地をそのまま利用して開校されたものと推測される。尚、禄高250石は馬廻組に相当する身分である。明治初期に設立された小学校の多くは、寺院や空き家を活用しており、開校当時の当仁小学校もまた、江戸時代の寺子屋に若干毛が生えた様な感じであったのであろうと想像される。当仁小学校開校当時の授業内容等については、安部磯雄の自叙伝などから知る事ができる為、関心のある方はそちらを参照されたし。
浪人町には、藩政時代には福岡藩の西学問稽古所・甘棠館(かんとうかん)が置かれ、その跡地が当仁小学校が開校した場所でもあり、現在の唐人町3丁目の一角に当たる。その後、当仁小学校は明治25年(1892年)に当時の東唐人町堀端(ひがしとうじんまちほりばた)である現在地へと移転している。
当仁小学校の校名の由来
當仁不讓於師(論語)
当仁小学校の校名は、『論語』の一節にある「仁に当たりては、師にも譲らず(當レ仁不レ讓二於師一)」に由来するとされている。当仁小学校の「当仁」は”とうにん”と読むので、「仁に当たりて」の「仁」は”にん”であるが、当仁中学校と南当仁小学校の校名の由来も、また同じ『論語』の一節「當仁不讓於師」であるが、こちらの「仁」は”じん”である。これは「はじめに」でも述べた通り、戦後は「仁」を”にん”と読むのは表外読み(常用漢字に無い読み方)になった事からだと言われている。
確認の為、父に何の説明もせずに当仁小学校の校名の由来を覚えているかと尋ねてみたところ、父の話しでは「仁(じん)に当たりては、師にも譲らず。だから当仁は”とうじん”」だと、今でもはっきり覚えており即答であった。そして強い口調で「”とうにん”なんて(当時は)聞いた事がない。」とも話していた。
この『論語』の一節「當仁不讓於師」が掲載されている古い書物の中に、「仁」の当時の読み方(ルビ)が分かる物はないか調べてみた。ルビが確認できれば、「仁」の読みが戦前は”にん”、戦後は”じん”であったという、所謂”仁の表外読み”の話しの真偽の手掛かりになるかも知れないと考えたからである。しかし、殆どの書物にはルビは振られておらず、探索は難航した。そうした中、明治3年出版の『経典余師 論語4』において、「仁」に”じん”とルビが振られている例を確認する事ができた。その掲載ページを引用した画像を、下に掲載しておく。
但し、これだけをもって「当仁」が”とうじん”と読まれていた確たる証拠とすることはできない。そこで、別の切り口から更に探ってみることにした。
地名由来の学校名
前節「当仁小学校の歴史」にも記した様に、当仁小学校は明治6年(1873年)に福岡部の浪人町に開校した。この年に福岡部には、大明(大名)、簀子、湊、荒津、當仁(唐人)、時行(地行)が、博多部には、小山、瀛浜(市小路/えいはま)が、また周辺では凾崎(箱崎/かんき)、草香(くさか)、晴好(春吉)などの小学校が開校している。翌7年(1874年)には、福岡部に稲葉(因幡)、須崎、博多部に新川(大乗寺町)、周辺では鳥飼、谿(谷)、紅葉(百道)などの小学校が開校している。(※括弧内の漢字は地名本来の漢字/ひらがなは読みを表す。)
上記の様に、大名は大明、地行は時行、箱崎は凾崎…といった具合に一部の学校名は地名を捩った同音異字で名付けられており、こうした命名を「雅名(がめい)」と言って、詩歌で用いる雅号と同じ様なもので、当時(明治期)の流行なのらしい。
前々節の「当仁小学校卒業生たちの証言」で触れた安部磯雄の自叙伝に唐人小學校では變だから、文字だけは當仁に改めたもの
との証言がある事からも、「当仁」(旧字体で當仁)は唐人町の「唐人」を捩った同音異字を当てた地名由来の雅名であり、読みも同じく「とうじん」であったと考えるのが自然である。その証拠として、古い書物や地図には、「唐人」を「當仁(当仁)」と書いたもの、逆に「當仁(当仁)」を「唐人」と書いたものが存在する。当仁小学校を唐人小学校、唐人町を当仁町や唐仁町と表記した例も確認できた。単に混同しただけの可能性があったにしても、同様に「時行小」は「地行小」と表記されている例がある事から、地名本来の漢字と同音異字の雅名とが、同じ意味と読みで使われていた形跡が窺える。
尚、当仁小学校の学校沿革に明治6年 地行小、草香江小と並び当仁小学校開校
と記載されているが、正しくは、「時行小」と「草香小」である(時行小→盈進北小→地行西小、草香小→盈進南小→同分校)。もし「地行小」と「草香江小」と表記するのであれば、前述した様に「当仁小」は「唐人小」と記さなければ整合性が取れない。
濱一貫堂碑
当仁小学校の直ぐ近くの成道寺の境内に「一貫堂濱先生頌徳碑」が建立されている。『福岡県碑誌 筑前之部』(昭和4年出版)には、「濱一貫堂碑」として、一貫堂濱先生の功績を門下生等が称えた漢文(明治30年9月編纂)が全文掲載されている。碑文は、當仁不譲師、見義不顧身、信禮成其事、材藝揚其名者、我濱先生是也
(訳:仁に當ては師に譲らず、義を見ては身を顧みず、信禮其の事を成し、材藝其名を掲げたるは、我濱先生是なり)で始まり、全文漢文で2頁近くに及ぶ。一部抜粋した冒頭句「當仁不譲師」は『論語』の一節「當仁不讓於師」と同義である。
- 備考
- 一貫堂濱先生は、名は幹茂、通称與四郎、從善と号し、幼名を猿藏という。文政5年(1822年)6月4日生まれ。一丈余の槍術家で、福岡部で私塾を開いていた人物である。諸藩の武術家を訪ね歩き、剣道・柔術・抜刀・槍術・薙刀・体術・馬術など、武芸十八般に及ぶ免許皆伝を得たとされる。武道のみならず学問にも通じ、文武両道に優れた多くの青少年の育成に貢献した人物として伝えられている。
校名由来の考察
先述した様に、当仁小学校の校名の「当仁」の文字は、唐人町の「唐人」を捩った同音異字の「當仁」(新字体で当仁)を当て、読みも”とうじん”であったと考えるのが妥当である。従って、校名が『論語』の一節「當仁不讓於師」に由来するという話しは、後年になって後付けされたと考えるのが自然であろう。
では、当仁小学校の近くの成道寺に「一貫堂濱先生頌徳碑」があるのは、果たして単なる偶然であろうか。繰り返しになるが、当仁小学校の校名が地名由来であることは明白である。校名が論語由来という話しは、唐人町の偉人・濱幹茂の功績に感銘を受けた唐人町界隈の住民の間で、その逸話や碑文の言葉が広まり、やがて当仁小学校の校名と結び付けられた結果、『論語』の一節「當仁不讓於師」に由来するという話しが後付けされたのではあるまいか。或いは、明治25年の當仁尋常小学校創立に際し、改めて校名の由来を『論語』の一節「當仁不讓於師」としたのかも知れない。これはあくまでも筆者である私の推測である。
その後に開校した当仁中学校と南当仁小学校も校名に「当仁」の文字を用いた事から、当仁小学校の校名が論語由来だと後付けされた話しが既に定着していた事から、それを踏襲したと考えれば、流れとしては自然で辻褄が合う。何れにせよ、当仁小学校の校名が論語由来という話しは、安部磯雄の証言からも、後付けされたものだと考えて間違いなさそうである。
唐人町の旧町名
学校名に地名を捩ったりした雅名を冠する例は、全国的に見られ、決して珍しいものではない事が調査の過程で分かった。また、県によっては「雅名廃止訓令」によって、雅名を廃止して校名に地名本来の漢字を冠する事になった地域がある事も分かった。これとは逆に、学校名に由来する町名も全国的に存在する。福岡市内でいえば、「福岡市南区筑紫丘」は福岡県立筑紫丘高等学校の学校名に由来する町名として、直ぐに思い浮かぶ例であろう。
当仁小学校の場合、校名に地名の「唐人」を捩った同音異字の「當仁」(新字体で当仁)を当てた雅名を冠し、その後に学校所在地の地名を校名の「當仁」に合わせて変更している。その際、当仁小学校の所在地を起点に「北當仁町1」とし、東唐人町堀端を「北當仁町」とした。また、移転前(開校地)の旧町名・浪人町を「中當仁町」としている。どちらも読みは校名と同じく”とうじん”である。当仁小学校の区域(校区)は、明治の初め頃は東唐人町外六町(東唐人町、西唐人町、新大工町、浪人町、大円寺町、桝木屋町、東唐人町堀端の六町)であった。当仁小学校の校区を、単に唐人町や東唐人、昭和初期には當仁町、戦後には当仁地区とした表記が見られる。また、戦前には福岡六唐少年團(當仁町公會堂内)が存在しており、六唐は東唐人町外六町を指していたものと思われる。(※戦後は旧字体の「當」は新字体の「当」に改められた。)
ここで、当時の唐人町界隈の地理的な位置関係を簡単に整理しておこう。唐人町は、今の商店街がある東西の横筋が東唐人町で、突き当りの善龍寺前から南に折れる南北の筋が西唐人町で、今の唐人町1丁目になる。東唐人町堀端は、東唐人町から北へ、黒門川に沿った町で、今の唐人町3丁目。浪人町は、東唐人町の北側に並行する東西の横筋で、今の唐人町2丁目辺りになる。(参考文献:『福岡町名散歩』(井上精三著/1983年出版))
父の話しによると、昔は、東唐人町(ひがしとうじんまち)と西唐人町(にしとうじんまち)、北当仁町(きたとうじんまち)と中当仁町(なかとうじんまち)はあったが、南当仁町(みなみとうじんまち)はなかったという。だが、南当仁小学校がある鳥飼辺りを父たちは南当仁町(みなみとうじんまち)と呼んでいたそうである。つまり、南当仁町だけは当時の地元民の間でのみ通用した非正式な名称であった様である。
余談ではあるが、父の話しによれば、当時の地行には”ジギョウタン”と呼ばれる朝鮮人部落があり、そこに住む朝鮮人の子供たちも当仁小学校に通っていたそうだが、その人数は然程多くはなかったそうである。同じ頃、博多の石堂川の両岸には朝鮮人バラックが立ち並び、千代小学校では生徒の半分は朝鮮人だったと父は話していた。朝鮮人と分け隔てなく接していた父は、学生時代に”ジギョウタン”の朝鮮人女性と交際していた事もあると話していた。もし父がその女性と結婚していたならば、私はこの世に生を受けず、この記事も存在しなかった事は言うまでもない。私が今こうしてこの記事を綴っているのも、何かの運命(さだめ)なのかも知れない。
さて、本題に戻そう。北当仁町と中当仁町という旧町名に関する史料が残っていないか調べようとしたところ、北当仁町と中当仁町という町名変更に関する記録が、何故だか不思議と見当たらない。Wikipedia等にも詳しい記述はない。
そこで古い書物を隈なく調べたところ、初出として確認できたのは、昭和16年(1941年)出版『文部省職員録 昭和16年10月1日現在』における「中當仁」の表記であった。説明するまでもないが、中當仁(町)がある以上、その対である北當仁(町)も、この頃には存在していると考えて差し支えない。
一応、『第7回 福岡市統計書 (昭和43年版)』(福岡市役所/昭和43年12月25発行)に、当時の「町別人口」の記載があり、当仁地区に北当仁町及び中当仁町の町名があるのが確認できた。
ところで、福岡県や福岡市の資料を基に福岡市の旧町名をまとめた『福岡市の町名』(1983年9月出版)によれば、昭和43年(1968年)2月1日に「高宮、地行、唐人町地区住居表示実施」が行われ、唐人町地区は、西唐人町・東唐人町・新大工町の全部・浪人町の一部が唐人町1丁目、浪人町・桝木屋町の一部が唐人町2丁目、東唐人町堀端・大円寺町の全部・浪人町・桝木屋町の一部が唐人町3丁目になった。また、昭和47年4月1日には区制施行により中央区唐人町1丁目~同3丁目となったと記されている(同書75頁)。
しかし、それ以前に存在した北当仁町と中当仁町についての記載は、同書の後の改訂版においても欠落している。地図や電話帳等では両町名の存在を確認できる事から、北当仁町と中当仁町の住居表示が存在しない筈がない。何れにせよ、唐人町界隈の町名が、昭和43年の住居表示実施によって唐人町1丁目~同3丁目になった事には違いはない。
従って、戦時中の昭和16年頃に生まれた「北當仁町」と「中當仁町」という旧町名は、戦後には「北当仁町」と「中当仁町」と表記され、昭和43年(1968年)に唐人町へ統合された事で旧町名として消滅したと考えられる。
では、旧町名の北当仁町と中当仁町が、「東と西」ではなく「北と中」とされた理由は何であろうか。仮に、東唐人町堀端を東当仁町、浪人町を西当仁町とした場合、発音が東唐人町及び西唐人町と同じで混乱が生じてしまう。その為、北当仁町と中当仁町という”まどろっこしい”名称にしたのではあるまいか。そもそも、東唐人町と西唐人町の北側に位置する東唐人町堀端と浪人町を、それぞれ北當仁町と中當仁町とした時点で、東唐人町と西唐人町を東西とした東西南北の方角を強く意識した命名であった事は明らかである。
当時の文書や地図等には、中当仁町を中唐人町、西唐人町を西当仁町などとの表記した例が見られるが、これは単なる誤字・誤植の類ではなく、「唐人」と「当仁」(旧字の當仁)が同じ意味を指す同音異字として日常的に使われていた痕跡であると考えられる。昔は「当仁(當仁)○○」と名乗る店舗や会社も複数存在した。例えば、今も福岡市中央区黒門にある「當仁うどん」(昭和28年創業)の「當仁」の読みは”とうじん”である。また、昭和38年当時の博多湾の埋立て工事に関する公式文書が『箱崎漁協の想い出』(1983年出版)の277頁に掲載されているが、その申請書類の埋立て場所に「東当仁町堀端25番地(以下省略)」と記されており、本来は「東唐人」の書くべきだが「東当仁」と書いてある。福岡市へ提出された申請書である事からも、当時は唐人と当仁の同音異字が同じ意味で使われていたと考えるのが妥当であろう。但し、他県で作成・出版されたもの(地図等の類)については、単純に誤字・誤植の類である可能性もある為、参照にあたっては注意が必要である事を付記しておく。
”とうじん”から”とうにん”への転換時期
これまでの調査から、当仁小学校の校名は、地名の「唐人」を捩った同音異字の「當仁」(当仁)の文字を当てた雅名を冠したものであり、校名は地名由来であって『論語』の一節に由来するという話しが後年の後付けである事は、既述の通りである。旧字の「當仁」は戦後に新字の「当仁」へと改められたが、何れにせよ「唐人」の同音異字である為、開校当時から戦後のある時期まで”とうじん”と読まれていた事に間違いはない。しかし、いつの間にか読み方が”とうにん”へと変わっている。一体、いつ、誰が「当仁」の読みを”とうじん”から”とうにん”へと変えたのか──、その疑問だけが最終的に残った。ところが、校名の読みを変更したという記録は、当仁小学校の学校沿革を始めどこにも見当たらない。変更に至った理由や時期について調査を行ったものの、関連資料は全く見つからず、完全に行き詰ってしまった……。
そこで、当仁小学校の「当仁」に”とうにん”とルビが振られた文書を探したところ、昭和50年(1975年)11月発行の毎日新聞 編『教室 1』に、当時の当仁小学校3年1組を特集した記事が約80頁に渡って掲載されており、その中の当仁小学校に関する簡単な説明文(24頁)で、「当仁」の漢字に”とうにん”とルビが振られていた。当時の取材記者が記した記事である事から、この時点で既に”とうにん”と言われていたと考えて良いだろう。
また、『現代日本の文学』(学習研究社出版/1976年4月1日発行)には、当仁小学校に通っていた作家・福永武彦に関する記事があり、そこでも当仁小学校に”とうにん”とルビが振られている。但し、福永武彦は2年生だった大正14年5月に同市内の警固小へ転校しており、その当時は”とうにん”ではなく、正しくは”とうじん”であった筈である。つまり、記事が執筆された1976年当時には、”とうにん”読みが既に一般化していたという事になる。
更に、『福岡歴史散歩 ─福岡・筑豊コース─』(歴史散歩刊行会出版/1981年11月20日発行)では、黒門川に沿って南へ歩くと当仁小学校がある。
(32頁)と記され、ここでもルビは”とうにん”である。他には、『海外移住 2月 1986/NO.454』(国際協力機構出版/1986年2月出版)では、「唐人小学校」(原文の儘)と表記しつつ、「唐人」に”とうにん”とルビが振られている例が確認できた。
これら以前では、明らかな誤記を除けば、当仁小学校の「当仁」に”とうにん”とルビが振られた書籍を確認する事はできなかった。
当仁小学校の校名は、明治6年(1873年)の開校当時から、少なくとも私の父たちが同校を卒業するまでの間、即ち昭和20~30年代までは”とうじん”であった事は、「当仁小学校卒業生たちの証言」の節で述べた通りである。上記の書籍資料から判断すると、遅くとも昭和50年(1975年)までには”とうにん”と読むように変わっている事は確実である。では、”とうじん”から”とうにん”へと変わったのは一体いつなのか。変更時期に在学していた方の証言が得られれば最も確実であるが、現時点ではその証言も得られず、調査を続けても新たな情報が全く出てこない以上、限られた情報から近似的に時期を推測するしか方法はない。(※情報をお持ちの方は、コメント欄等からご一報頂ければ幸いである。)
「唐人町の旧町名」の節で述べた通り、後に学校所在地の町名は、学校名に由来する「北當仁町(きたとうじんまち)」と「中當仁町(なかとうじんまち)」へと変更されている。この町名が使われていたのは、昭和16年(1941年)頃から昭和43年(1968年)までである。もしこの町名が使われていた時期に校名の読みを変更した場合、校名と町名で読み方が異なる問題が生じてしまう。町名は校名に合わせて態々変えたものなので、町名は”とうじん”のままで、校名の読み方だけを”とうにん”に変えたとはちょっと考え難い。
また、校名の変更に合わせて町名の読み方まで変えるとなれば、その影響は学校関係者や在校生に留まらず、市民全体、さらにはこの町に支店や営業所を持つ企業にまで及ぶ事になる。この事から、北当仁町と中当仁町の旧町名が使われていた時期に校名変更が行われた可能性は低いと考えられる。
当仁小学校は昭和47年(1972年)が創立80周年を迎えているが、仮にこの節目で校名変更を行うのであれば、唐人町地区住居表示実施が行われた昭和43年(1968年)に前倒しした方が、何かと都合が良い。
そう考えると、昭和43年(1968年)の町区合併により旧町名から唐人町となったタイミングが、最も可能性が高そうである。それ以降だと、福岡市は昭和47年(1972年)4月1日に「政令指定都市」に昇格して区制施行を行ったタイミングも考えられなくはないが、こちらは行政区の設置だけなので、町区合併の昭和43年に比べると可能性はかなり低い様に思われる。昭和43年(1968年)2月1日に唐人地区住居表示実施が行われた同年4月の新学期開始に合わせて、当仁小学校の「当仁」の読みを”とうじん”から”とうにん”へと変更するのが一番タイミングとして最適ではないだろうか。しかも、このタイミングであれば、運営主体が同じ市や自治会にある当仁公民館、婦人会や青年団等々の名称も”とうにん”読みに統一する事ができる。一方で、當仁うどんが現在も”とうじん”読みであるのも運営主体が異なる為と考えれば説明が付く。
もっとも、校名変更となれば、当時の在校生は、ある日登校すると朝礼で担任の先生から校名変更を突然告げられた筈である。とても重大な話しなので全校集会があったのかも知れない。当時2年生の児童であれば、1年生時は”とうじん”で卒業までの残り5年間は”とうにん”で過ごす事になる。新入生であれば何ら問題ないであろうが、2年生以上の在校生にとっては、突然の校名変更はあまりも理不尽な出来事であったに違いない。そもそも教職員の間でも反発があった可能性も考えられる。
だからこそ、そもそも変更などなかったのではないかと考える読者もいるかも知れないが、それはあり得ないと断言できる。これまで述べてきた通り、どこかのタイミングで変更が行われた事だけは確実だからである。もしかすると校名変更での混乱を抑える為、新入生から”とうにん”読みとなり、2年生以上の在校生についてはこれまで通り”とうじん”でも新たに”とうにん”でも構わないとする、謂わば移行期間が設けられた可能性も考えられまいか。その場合、6年間が過ぎれば完全に”とうにん”が浸透する事になる。
先述の通り、”とうにん”読みが遅くとも昭和50年(1975年)頃には定着していたと考えられるので、そこから移行期間の6年を差し引けば、昭和43年(1968年)の町区合併の時期と校名変更のタイミングが重なり益々以てこのタイミングでしかない様に考えられる。
変更当時、当仁小学校は戦前からあるから”とうにん”、当仁中学校と南当仁小学校は戦後にできたから”とうじん”(のまま)といった、それらしい理由を付けて説明がされていたのかも知れない。もしそうであるならば、”仁の表外読み”といった校名に関する話しは、今では意味を誤解されて伝えられているに過ぎないとも考えられ、それならば矛盾なく説明が付きそうである。
今の大名にあった旧町名「紺屋町」は、本来”こうやまち”と読む。しかし、地名にちなんで名付けられた大名紺屋町通りなどに見られる様に、現在では”こんやまち”と読まれる事が一般的になっている。今の大名は、昭和34年6月15日の福岡地区住居表示実施により、大名界隈の旧町名は大名1丁目と2丁目になり、紺屋町はその時に大名1丁目になっている。
昔、NHKのアナウンサーが紺屋町を「こんやまち」と言った事から、当時の子供たちは学校の先生よりもNHKのアナウンサーの方が正しいと信じて「こんやまち」の読み方が広まったと伝え聞く。私自身は、子供の頃に亡き祖父から、紺屋町の読みは「こうやまち」が正しいと教わっている為、”こんやまち”には違和感を覚える。
兎にも角にも、「当仁」も同様に、本来の読み方は”とうじん”であったものが、誰かの読み違いや思い込みを切っ掛けに、読み方を一本化して”とうにん”になった可能性もあるのかも知れない。その一例として、かつて地図や観光ガイドの出版を行っていた、東京に本社を置く「人文社」が出版した地図を紹介しておく。
- 『日本都市地図全集 第1集』(昭和32年出版)では、福岡市の町名索引に、西唐人町(西唐人町)・東唐人町(ひがしとうじんまち)・北当仁町(きたとうにまち)・中当仁町(なかとうにまち)と記載されている(※仁は”にん”ではなく”に”)。地図上では東唐人町が中唐人町になっている。また、今の大名にあった紺屋町(こうやまち)は”こんやまち”になっている。
- 『九州市街地図集 : 併県別地図(附山口県)』(昭和36年10月発行)では、「福岡市地名総覧」に北当仁町(きたとうにんまち)・中当仁町(なかとうにんまち)・東唐人町(ひがしとうじんまち)・西唐人町(にしとうにんまち)とあり、ここでも地図上で東唐人町が中唐人町となっている。
- 『日本都市地図要覧 都道府県庁所在都市篇』(昭和41年6月発行)では、「福岡市地名総覧」において、北当仁町(きたとうじんまち)・中当仁町(なかとうじんまち)・東唐人町(ひがしとうじんまち)・西唐人町(にしとうじんまち)と読みが改められているが、地図上の表記は、北当仁町と中当仁町となる以前の旧町名での町区表記になっている。
この様に、かつて存在した老舗地図出版会社が、この様に読み方に揺れのある地図を出版していた事も、”とうにん”読みとなった事と、何らかの関連があるのかも知れない。
当仁小学校の「当仁」(旧字体で當仁)は「唐人」の地名を捩った同音異字を当てた雅名を冠し、読みも同じ”とうじん”であった。しかし、いつしか”とうにん”へと読み方が変わってしまった訳だが、”とうじん”と読まれていた時代に学び舎で過ごした生徒や教職員が居てこそ、現在の当仁小学校の歴史がある。その事実を踏まえ、当仁小学校の「当仁」は元来”とうじん”であった事を、是非知って頂き、忘れずにいて欲しい。
まとめ
本稿では、福岡市中央区唐人町にある当仁小学校の校名「当仁」の読みが、かつては”とうじん”であったものが、現在では”とうにん”へと変化している点に着目し、その変化がいつ、何故生じたのかという疑問について、史料調査と複数の証言を基に検証を行った。その結果、以下の点が明らかになった。
- 第一に、当仁小学校の校名「当仁」(旧字体・當仁)は、『論語』の一節に由来するものではなく、唐人町の地名「唐人(とうじん)」を捩った同音異字の雅名である可能性が極めて高いことが、安部磯雄の自叙伝をはじめとする一次史料から確認できた。開校当初から少なくとも戦後間もない時期まで、当仁小学校は一貫して”とうじん”と読まれていたと考えて差し支えない。
- 第二に、「仁」を“にん”と読むのは戦前で、“じん”は戦後の読みであるとする、いわゆる“仁の表外読み”の説明は、史料および卒業生の証言と明確に矛盾しており、当仁小・当仁中・南当仁小の三校それぞれの校名の読みの違いを説明する根拠としては成立しない。
- 第三に、戦後においても当仁小学校が”とうじん”と呼ばれていた時代が存在したことが、複数の卒業生及び関係者の証言から裏付けられた。一方で、昭和50年(1975年)頃までには、”とうにん”読みが一般化していたことが、書籍資料から確認できる。
以上を踏まえると、当仁小学校の校名の読みが”とうじん”から”とうにん”へと変わった時期は、昭和43年(1968年)の「唐人町地区住居表示実施」を前後する頃である可能性が最も高いと推察される。然しながら、校名の読みを変更したという公式記録は学校沿革や行政資料の何れにも現時点では発見する事が出来ず、変更の経緯や決定主体については、未だ不明のままである。
本稿で得られた結論は、「当仁小学校の『当仁』は本来“とうじん”であった」という点に尽きる。現在の”とうにん”という読みは、何らかの契機によって後年に定着したものであり、少なくとも開校及び創立以来の読み方ではない。当仁小学校の歴史は、”とうじん”と呼ばれていた時代に学び舎で過ごした数多くの児童や教職員の歩みの上に成り立っている。その事実を忘れず、当仁小学校の校名に秘められた本来の意味と歴史を、今一度見つめ直す契機となれば幸いである。
あとがき
高齢の父は、冷蔵庫に物を取りに行っておいて何をしに冷蔵庫まで行ったのか忘れて戻って来る事もあるが、昔の事は昨日の出来事かのように克明に話すので、「昔の事は確りと覚えているのになぁ」と、少し呆れてしまう事もある。
先日父から聞いた昔話のひとつは、既にブログ記事「その昔、西鉄大牟田線を「急行電車」と言った。」として記し掲載したが、父の思い出話しはそのまま当仁小学校時代の話しへと続いた。その話しも書き残しておこうと思い立ち、私なりに調べてまとめたものが本稿である。
当仁小学校の「当仁」の読み方が”とうじん”から”とうにん”へと変わったのは、今から58年前の昭和43年(1968年)頃である可能性が濃厚であろうと推察している。もしこの推測が正しければ、この時期に当仁小学校に通っていた方の証言を得られれば、この謎は解明できそうである。しかし、58年も前の出来事である為、当時教職員だった方は80歳以上、卒業生であっても現在64歳から70歳前後になる計算である。証言を集めるのであれば、急がなければならない。あと10年、20年と時が過ぎれば、この謎の真相は永久に藪の中に葬り去られてしまうだろう。
私に出来る事はここまでである。もし読者の方々の中に、ご両親や祖父母が当仁小学校の卒業生、或いは教職員であった方がおられたなら、是非とも当時の話しを聞き、確認してみて頂きたい。
また、当仁の読みが”とうじん”から”とうにん”へと変更された経緯について、どんなに些細な情報でも構わないので、何かご存知の方がおられれば、本記事のコメント欄等から私宛にメッセージをお寄せ頂けると幸いである。
長い記事となりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
