長崎原爆の日に思うこと | まきむく通信(どうでもいいこと書いています!)

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この長崎原爆の日にちなんだ有名な1枚の写真

亜米利加の従軍カメラマン(ジョー・オダネル氏)が、長崎の爆心地近くで撮影した1枚の写真である。彼は、軍の任務の一貫として長崎の原爆投下後の戦況写真をとる任務を受けていた。

 

その任務の中では、日本人の姿を撮影することは禁じられていたらしい。あくまで、原爆の威力がどの程度あったのか、破壊力を撮影することが彼の任務であったのである。

 

そんななか、長崎の爆心地近くの火葬場でであった少年を撮影せずにはおれない衝撃が彼のなかに走った。そのいきさつ、この写真のでどころなど、このブログの後半にリンクを貼っていますので参照して下さい。

 

平和の世の中になったことを感謝しつつ。。。原爆の日くらいは、広島と長崎のことを思い出し、考えてみようではありませんか?日本人として平和を享受している身として、せめての務めであると思います。

 

 

1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、亜米利加軍が日本の長崎県長崎市に投下した、人類史上実戦で使用された最後の核兵器。本当に実際に使われる最後の核兵器となって貰いたいです。

11時02分黙祷します

 

 

・・・・以下転載・・・・

報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて) 

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。
それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。

 

 

NHKスペシャル

解かされた封印 ~米軍カメラマンが見たNAGASAKI

 

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