雨桜🌸


櫻子は

桜になりたいと言った


佐島マリーナ近くのリストランテのベランダで、ボクはジンソーダを、櫻子はあの緑色のメロンシロップのソーダ水を飲みながら。


遠くの桜吹雪がなぜか目に映えていた


花筏が打ち寄せる波に前後しながら

岸の形にピンクの干渉縞を作っていた。


美しい人だが

人妻で、女友達だ。


性的なつながりを求める人でも

受け入れる人でもない。


ボクの感情に関わりなく、

櫻子の心の傷は深く、

その裂け目から、闇へと続いている。


ボクもまた還暦を迎え、しかも、若い日からの不節制が答えを出し、男としての本能は働いても、男として機能しないのだが


桜殺しの雨が4

それに耐えた桜が、初夏の陽気に開き過ぎて、散っていく


花吹雪には光も混じり、それは降り続ける。


ボクは、桜になんかなっちゃいけないと喉まで出かかりながら、

櫻子を否定してはいけないと、どこかで思っているらしい。


花筏の干渉縞は、桜花の死骸の群れである。

それを美しく観るボクは傲慢な悪魔の部類だろう。


櫻子は控え目に夫への不満を述べ、ボクが気の無い返事でごまかすと、ごめんなさいと言った。

謝ることなどどこにもないのに、


自分が心を乱される痛みを、他人も痛むのだと思うらしい。

傷ついた人には珍しく、人の痛みを気遣う人だ。

そして、それは自分の痛みを更に深くしているかもしれない。


ねぇ

ピザ頼んじゃだめ?


このリストランテの、四角いピザは絶品なのだ。

だが

ボクは意地悪く、拒絶した。


櫻子は不満に口をとんがらせた。


それがどうしようもなく可愛らしく、ボクの網膜に残された櫻子は、唇をとんがらせた櫻子から始まる。


強い波が岸壁を洗った。

クルーザーが午後に向かって船出して行った。


花筏は乱れ、しかし数分もせず、元の干渉縞に戻った


72年前に終わった世界大戦の

8500万人の死と、その亡霊と


南の島で餓死していく陸軍兵

腕の中に赤児を掻き抱きながら

燃え尽きていく下町の女房


出航したばかりの輸送船で、ボートにたどり着くこともできず、海に呑まれていく、ボクの叔父らしき若者


訓練と称し、抵抗した女を木に縛り付け、徴用間もない新参兵に銃剣で突かせる、伍長の、濁った笑いを含んだ黄色い眼


一瞬、ボクの脳裏に類型化された映像が駆け抜けた。


反戦、反安倍のやり過ぎと笑うには、妙にリアルに、懇願するように、酸っぱく

映像は哀しみのあとを引いた


海辺を走るバスの一瞬のうたたねなのか


森戸海岸に着くまで、櫻子とは話さなかった。

櫻子は、自分の何かがボクを不機嫌にさせたのではないかと、不安そうだった。


森戸神社の桜の老木は既に葉桜

それでもボクは森戸神社を回って再び集落に戻った。

逢魔が刻の闇は薄いインヂゴを含み、そのインヂゴが、深い。

流れ込む川の花筏は濃く、桜花が光を含んだまま、流されて来ていることを顕している。

水は夜を先取りし昏い。


魚屋の二階の居酒屋で、鱵と鰆をつまみに、天青の無濾過純米を銜む。


櫻子は解き放たれたかのように、握寿司を食べていた。


ただそれだけのことである。


ネットで知り合った櫻子と、逢って

友達として食事をして、

お互いの家に帰った。


あれから一年が過ぎた。

櫻子はそのサイトから消えた。


死んだという噂もわずかに流れた。


だが

誰も真相を知らない。


今年の桜は歴史的な早咲きになるはずだった。

それが、3月に入り、冬に戻り、

気がついたら例年よりも遅い桜が咲いている。


横須賀に、友達の参加している、身障者バンドのライブがあり、その帰り、夕闇の佐島マリーナで、昨年観た、桜に寄ってみた。


昨年と同じ花吹雪のようだ。

だが

桜に近寄るのは初めてだし、

春の雨は激しく降っている。


だのに、桜は花吹雪を降らせている。


桜は何も語るはずがない。


だが

櫻子


なぜそんな直感が走ったのか、わからない。


ボクは初めて、櫻子に怒りをぶつけた。

ソメイヨシノなんかになるな


全てのソメイヨシノは、挿し木でしか増えない。

実を結ばない桜は、全てクローンだ


櫻子はこの宇宙史に一度しか現れない、唯一無二の存在だ


櫻子に限らず、全ての命は唯一無二なのだが


桜は答えない

櫻子も答えない


春の雨は激しく降っている


やがて幻だったかのように、ボクはぐしょ濡れでバス停に向かっていた。