☆雨桜🌸
櫻子は
桜になりたいと言った
佐島マリーナ近くのリストランテのベランダで、ボクはジンソーダを、櫻子はあの緑色のメロンシロップのソーダ水を飲みながら。
遠くの桜吹雪がなぜか目に映えていた
花筏が打ち寄せる波に前後しながら
岸の形にピンクの干渉縞を作っていた。
美しい人だが…
人妻で、女友達だ。
性的なつながりを求める人でも
受け入れる人でもない。
ボクの感情に関わりなく、
櫻子の心の傷は深く、
その裂け目から、闇へと続いている。
ボクもまた還暦を迎え、しかも、若い日からの不節制が答えを出し、男としての本能は働いても、男として機能しないのだが…
桜殺しの雨が4度…
それに耐えた桜が、初夏の陽気に開き過ぎて、散っていく…
花吹雪には光も混じり、それは降り続ける。
ボクは、桜になんかなっちゃいけないと喉まで出かかりながら、
櫻子を否定してはいけないと、どこかで思っているらしい。
花筏の干渉縞は、桜花の死骸の群れである。
それを美しく観るボクは傲慢な悪魔の部類だろう。
櫻子は控え目に夫への不満を述べ、ボクが気の無い返事でごまかすと、ごめんなさいと言った。
謝ることなどどこにもないのに、
自分が心を乱される痛みを、他人も痛むのだと思うらしい。
傷ついた人には珍しく、人の痛みを気遣う人だ。
そして、それは自分の痛みを更に深くしているかもしれない。
ねぇ…
ピザ頼んじゃだめ?
このリストランテの、四角いピザは絶品なのだ。
だが…
ボクは意地悪く、拒絶した。
櫻子は不満に口をとんがらせた。
それがどうしようもなく可愛らしく、ボクの網膜に残された櫻子は、唇をとんがらせた櫻子から始まる。
強い波が岸壁を洗った。
クルーザーが午後に向かって船出して行った。
花筏は乱れ、しかし数分もせず、元の干渉縞に戻った
72年前に終わった世界大戦の
8500万人の死と、その亡霊と…
南の島で餓死していく陸軍兵…
腕の中に赤児を掻き抱きながら
燃え尽きていく下町の女房
出航したばかりの輸送船で、ボートにたどり着くこともできず、海に呑まれていく、ボクの叔父らしき若者…
訓練と称し、抵抗した女を木に縛り付け、徴用間もない新参兵に銃剣で突かせる、伍長の、濁った笑いを含んだ黄色い眼…
一瞬、ボクの脳裏に類型化された映像が駆け抜けた。
反戦、反安倍のやり過ぎと笑うには、妙にリアルに、懇願するように、酸っぱく
映像は哀しみのあとを引いた…
海辺を走るバスの一瞬のうたたねなのか…
森戸海岸に着くまで、櫻子とは話さなかった。
櫻子は、自分の何かがボクを不機嫌にさせたのではないかと、不安そうだった。
森戸神社の桜の老木は既に葉桜…
それでもボクは森戸神社を回って再び集落に戻った。
逢魔が刻の闇は薄いインヂゴを含み、そのインヂゴが、深い。
流れ込む川の花筏は濃く、桜花が光を含んだまま、流されて来ていることを顕している。
水は夜を先取りし昏い。
魚屋の二階の居酒屋で、鱵と鰆をつまみに、天青の無濾過純米を銜む。
櫻子は解き放たれたかのように、握寿司を食べていた。
ただそれだけのことである。
ネットで知り合った櫻子と、逢って…
友達として食事をして、
お互いの家に帰った。
あれから一年が過ぎた。
櫻子はそのサイトから消えた。
死んだという噂もわずかに流れた。
だが…
誰も真相を知らない。
今年の桜は歴史的な早咲きになるはずだった。
それが、3月に入り、冬に戻り、
気がついたら例年よりも遅い桜が咲いている。
横須賀に、友達の参加している、身障者バンドのライブがあり、その帰り、夕闇の佐島マリーナで、昨年観た、桜に寄ってみた。
昨年と同じ花吹雪のようだ。
だが…
桜に近寄るのは初めてだし、
春の雨は激しく降っている。
だのに、桜は花吹雪を降らせている。
桜は何も語るはずがない。
だが…
櫻子…
なぜそんな直感が走ったのか、わからない。
ボクは初めて、櫻子に怒りをぶつけた。
ソメイヨシノなんかになるな…
全てのソメイヨシノは、挿し木でしか増えない。
実を結ばない桜は、全てクローンだ…
櫻子はこの宇宙史に一度しか現れない、唯一無二の存在だ…
櫻子に限らず、全ての命は唯一無二なのだが…
桜は答えない
櫻子も答えない
春の雨は激しく降っている
やがて幻だったかのように、ボクはぐしょ濡れでバス停に向かっていた。
☆了