前回の続き

 

石川憲彦氏は現役児童精神科医であり、現代精神医療並びに教育制度と法制に非常に懐疑的なお考えをお持ちの方で、私自身まだお目にかかってはいないが近いうちにお伺いしたいと強く願う方である。

そのDr.石川は本書の中でこう仰っていらっしゃる。

『自主管理の領域にまでAD/HD管理の発想が浸透しつつあるのではないかと思います。日本型管理は少人数学級的になることで、手厚い教育という名の下に、手厚さによる自己の縛りを生んでしまっているのではないかと思います。

・・・(中略)・・・

大体10歳くらいまでの子供というのは、褒められることは自分にとって何かとてもいいことと感じる。でも、10歳過ぎた子供にとって、もちろん人によって違いますから一概に言えないのですが、褒められると「俺を疑っているのか」となっていく場合もあります。そういった大人と子供の関係の変化の問題がある。しかしもっと掘り下げて、何で自己価値が怖いかと言いますと、自己という個人の内面に対して価値が語られだしてくると人間が労働力として商品化される以上のことになるのではないかと思うのです。貶す(けなす)ことも褒めることも含めて人間は相互の関係の中で働きかけ合い、それによって価値を形成していく存在です。それをこの子は自信をなくしている子で、だからセルフエスティーム(Self-esteem)をうるためにいいかちづけをあたえなければならないという という言い方がまかり通っています。

私はAD/HDが出てきたことによって、セルフリスペクト(Self-respect)【自我/自尊の意 筆者加筆】がセルフエスティーム【他者による主観的評価の意で、どちらかと言うとEsteemよりもEstimationの方が適切な語彙と思われる 筆者加筆】に置き換えられたと思う。リスペクト「尊敬」ではなくエスティーム「評価」なのです。「いい評価を与えたら自信を持つ」というだけではなくて、いろいろな評価にさらされながら、自己価値を度外視して自己存在を(とうと)じる(じる)ように育つのです。・・・(中略)・・・

けれど、AD/HD関係の本は高岡さんが言ったように、「褒めてあげなさい」、それ以外はないのですね。価値を個人内評価に閉じ込めて、「親が褒めてあげなさい」というわけです。親トレーニングのプログラムなんてのが本になる。一つ間違えれば母性愛、父性愛にまで還元されかねない程、価値の個人化が進んでいて、それを家族みんなが守ろうとする。セルフエスティーム論は日本社会では先ほど言いました自己管理の構造と家族関係の構造が結びついてしまうので、とても危険だと思うのです。

ライフサイズで考えてみると、セルフエスティームが無茶苦茶になってしまって打ち砕かれた子が沢山いるのは事実です。しかし、彼らはそこからしかスタートできないし、それが大切な力になるのではないかと私はいつも思っています。大人は子どもの自信を奪ってしまってはいけない。つまり自分より弱いものを圧迫してはいけない。しかしそれはエスティームによるのではなく、リスペクトによって回復されるのです。人間はどんな子どもであろうが赤ちゃんであろうが大事な人間としてリスペクトされることで、外部が失わせた評価によって生まれる無理を克服していくのだと思う。Dr.石川憲彦氏によるセルフエスティーム論 心の病はこうしてつくられる 5456頁から抜粋転載】

 

僭越ながら私なりの理解/解釈で恐縮だが、Dr.石川の仰っていることを要約すると、

1.  「自尊心」は様々な人間関係や経験により醸成されるものであり、一律に「褒めること」だけで醸成されるものではない

2.  家庭や教育現場で子どもの自己尊敬の感情/感覚を踏み躙って(ふみにじって)いるから自己評価の低い子どもが増えているだけであり、決して(本質的な)AD/HDに起因する問題行動(自己存在の確認行動)を起こしているのではない

3.  教師、教育機関の都合(一律の教授([おしえさずける])に不適当な子供の排除)だけで子どもを分別しているに過ぎない

4.  あらゆる処で「管理」が進み過ぎており、「管理基準外」のDisorder/Disability【様々な障害に相当する全て この障害とは見えるものや障害(判定)基準に合致するものだけではなく、単なる不得手も含有する】をも「不適合」として排除している

と感じた。

 

 

さて、冒頭に触れた「日本(・・)社会(・・)()閉塞感(・・・)」「貧困化(・・・)」「社会(・・)()高齢化(・・・)進行(・・)(少子化)」についてだが、行き過ぎた「管理」と自分自身で考え行動できない人材の生産に終始する教育と高い付加価値を生めない人材を増やしたことによる税収不足に伴う若年層乃至育児世代に対する福祉財源を手当てできなくなってきていることが原因だと私は分析をしている。

 

ではその一つひとつの考察に移ろうと思う。

まず「日本(・・)社会(・・)()閉塞感(・・・)」からだが、拙ブログを日頃よりご高覧賜っている読者諸兄姉のうち、公開読者登録されていらっしゃる方々を拝見する限りだが比較的自営若しくは経営層に属されている方々が多いとお見受けをしている。

この「(自営を含む)経営層」の方々にとっては自ら道を切り開き、無から生み出すことに対するハードルはそう高いものではないと思うが、一般的/典型的な日本人は組織に所属することでしか生活の糧を手にすることができないのだと思う。

 

自身の力だけで道を切り開くためには、他人の目や同調圧力など「屁」としか思わないメンタルの強さに「唯我独尊」的発想に基づきつき進むだけの胆力を兼ね備えなければ実行に移すことは大変難しいであろう。

だから、組織内で一人上記のような素質を持つ抜きん出た者が生じると寄って集って徹底的に叩きのめすか、徹底的に排除する行動を平然と行うのが日本人だ。

日本人は「同一」「同様」以外を許さない、認めない、一切合切の「異質」「管理基準外」を排除しなければ不安で仕方がないのだろう。

裏を返せば、日々の切磋琢磨、組織内外競争、対立【異見を交わすことで、戦うことではない】よりも平和で和気藹々(わきあいあい)、日々何事もなく穏やかに時間が過ぎることに安心感を覚え、結果的に生産性が上がらなくても付加価値を高められなくても、大した問題ではないと認識をしてしまうのではないかと分析をしている。

 

その代表的な事例が、我が国が超絶IT後進国であるという事実が如実に物語っていると私は感じている。

IT化促進を昂進(こうしん)【推し進めること】させることで自身の業務がなくなり失業してしまうとでも考えるのであろうし、高齢者を中心に操作ができないので逆に不便を極めるという詭弁で「変化/改革」を拒絶しているだけではないか?

 

次回に続く