彼は理由を語らない。

ただ曖昧なまま「また応援お願いします」

「顔出しオンライン飲み会やろうね」と、

どこか人懐っこさを装って軽く呼びかける。

 

栃木弁まじりのその調子に、

コメント欄では「何があっても応援します」

「また妨害されたんですか?」「闇の妨害は強烈ですね」と、

盲目的な声が絶えない。

 

真相を知りたいと書き込む人も一部にはいるが、

その声は圧倒的な数の“応援メッセージ”に埋もれていく。

 

 

だが、本当に考えてみてほしい。

「何があっても応援する」とは、いったいどういう覚悟なのか。

自分や家族が不倫で妊娠させられ、

養育費すら一円も払われない立場になっても、

同じように「それでも応援します」と胸を張って言えるのか。

 

(被害者のみが沈黙しているという悲劇)

 

もしそこまで想像したうえで「はい、応援できます」と答えられるなら、

その人は筋金入りの信者だろう。

しかし多くの人は、自分事になればとても容認できないはずだ。

 

それでも「彼には彼なりの事情があるはず」「人間は誰でも間違える」と言い訳を繰り返し、

彼の影の部分から目を背ける。過去の実態や被害証拠が公に出ているにもかかわらず、

「闇の妨害」「また邪魔された」といった虚構に逃げ込み、情だけで支える。

 

結局それは応援ではなく、現実からの逃避にすぎない。

 

目を閉じて声援を送り続けることは、彼を守るどころか、

彼の“説明責任を放棄する態度”を助長している。

真相を知ろうとせず、影の部分を見ようとせず、ただ「好きだから応援する」と言う。

 

その姿は、まるで依存の構図そのものだ。

もはや応援ではなく、自らの幻想を守るための信仰に近い。

 

だからこそ問いたい。

あなたは本当に“何があっても”応援できるのか。

それは誇れる姿勢なのか。

 

真実に目を向ける勇気を持つことこそ、

彼を美化し続けるよりはるかに健全で、

大切な一歩ではないのか──。