すぐさまその首は、陣地に運ばれ見聞が行われることになった。その見聞には、首を取ってきた陣佐左衛門も同席することになった、なぜならば、天草四郎なる者を、討伐軍の者は誰も知らないのだ。


「陣佐左衛門、この首はいかにして天草四郎と見定めたのじゃ。」


「はっ、南蛮渡来の豪奢な衣を纏っており、そして、喉にこの短刀が刺さっておりました。自害した後でございましたが、天草四郎は益田甚兵衛好次の嫡男、この家紋は益田家の家紋。故にそう判断いたしましてござります。」


「それだけでは不十分じゃ、そうじゃ、内通者の山田右衛門作をこれへ。」


この男は、南蛮絵師で元は一揆軍の一員であった、しかし、寝返ったのだ、彼の寝返りが負け戦の原因となったかどうかは定かではないが、内情を把握するにはこの男が活躍したことには相違ない。


「この首じゃが、誠に天草四郎か?」


山田は一目見て違うと分かったが、目の前に座る陣佐左衛門に気が付いて身体が震えた、裏切りを見つかったのだ、そしてその首の父親が目の前に鋭い視線で山田を見ていた。嫌な汗が滴り落ちる


「天草四郎時貞でございます。私は裏切った者、総大将の顔を見てはおられません。」


そう言ってその場で突っ伏して二度と顔を上げなかった。その様子からしても真のように思えるが、それでもまだ、用心に用心を重ねるようにその首をあろうことか、時貞の母上の前に突出したのだ。
それまで母上は


「我が息子、四郎はそなた等に掴まってなどおらぬ、白鳥となり伴天連の国に飛んで行ってることでしょう。」


目の前で燃え盛っている原城を見ながらも、気丈にそう答えていた。その母の前にその首が晒された。


「そちに聞く、この者がそちの息子、天草四郎ではないのか!!」


その首を見た途端、両手でその頬を包み涙を流しながら


「ああああぁぁ・・このように、痩せてしもうて・・。すまんかったのう・・ううう」

そう言って泣き崩れた。この行動をみて、討伐軍はこの首を天草四郎時貞と断定し、その首を晒し首とした。
母上は一言も、四郎とは言う事はなかったが、三左衛門からこのからくりを聞かされていた、我が子同然として共に暮らした運之丞の首を我が子の代わりに晒すことになるのだ、家族としての愛情から涙がとめどなく流れたのだった。


城に一人残された時貞は、首の無くなった運之丞の身体の傍にもう一度もどり、その両手を組ませ、横たえた。そして、炎が包み始めた城内の奥に向かって歩いていた、皆で祈る時に使っていた、十字架の祭壇がある場所に向かい一人戻っていった。
祭壇の前に着いた頃には、いたる所から焼けて落ちてくる木材などが容赦なく時貞を狙ってきていた、それをかいくぐりながら祭壇の前に座り、首にかけたロザリオを手に持ち、手を組んで、祭壇に向かって祈りを捧げ始めた。


「天にまします我らの父よ、願わくは 皆の尊まれんことを 御国の来たらんことを み旨の天に行わるる如く地にも行われんことを 我らが人に許す如く 我らの罪を許し給え 我らを試みに引き給わざれ 我らを悪より救い給え アーメン」(主の祈りより)


そこまで口にしたと同時に、天井が崩れ落ち、時貞は火に包まれて逝った。16歳という、若い年齢でこの乱の総大将となり、そして散っていった。彼らの命がけの訴えは、少なからず、天に届いていた。その証拠に、島原藩主 松倉勝家は、改易処分となり、後に罪人の扱いで斬首されることとなった。また天草の領主、寺沢広高も、領地没収となり、その後、精神異常を来たし自害してしまった。
これにより、島原の乱は終結した。


島原藩には、徳川譜代の高石が入り、乱で荒れたこの地を復活させた。
天草では、この乱から30年という年月をかけて、石高を、本来の量に落とすこととなった。どちらも、この乱の後に、素晴らしい藩主や、領主が、立て直していったのだ。彼らの、命をかけての訴えは、聞き届けられたのであった。
ただ、キリシタンだけは、その願を、明治維新までの長い間、隠れキリシタンとなって受け継がれることとなった。

二度と乱がおこらないように原城は徹底的に破壊され、そこで多くの者が命を失った影すら、残されることはなかった。
ただ有明の海と、丘だけがそこに残った。


(完)


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