原城の中には、延べ37,000人ほどが立て篭もった、そこには、男ばかりでなく、老若男女入り混じっていた、これはなんら珍しいことではなく、城の中にいる方が安全と言うことで良くあることだった。しかし、これだけの人数が、城に留まれば食料などの備蓄に限りがある、戦いは短期決戦で決着をつけたいもの、一揆軍には秘策があった、キリシタンの者が密かにポルトガルと通じて、援軍を送ってもらうことになっていたのだ、それまでの篭城とこの時は思っていた。


12月10日と20日に九州諸藩から集められた一揆討伐軍が、原城に総攻撃をかけてきた、しかし、一揆討伐軍の士気は低く、統率をかき攻撃も焦点が絞られずことごとく打ち砕かれた、それに反して一揆軍の統率はとても高く、討伐軍の攻撃を見事に撃墜し、耐え抜いた。

この事態を重く見た幕府は、二人目の討伐上使として、老中 松平 信綱 の派遣を決定した。しかし、ここで慌てたのが、先に総大将として立った板倉は、1月1日に再度総攻撃をかけたが、強引に突撃し討ち死にしてしまった、また、討伐軍も連携不足が露見し、またも敗走と言う結果となった。


一揆勢は幾度と攻撃を受けるが、その度にその攻撃に耐え、打ち砕いて来ていた、もうしやすると、本当に自分たちの新たな国づくりが出来るのではないかと少なからずこの時は期待をしていた。しかし、その淡い期待は打ち砕かれることとなった。

松平 信綱は、着陣するなり、兵の統率を図った、九州諸藩の藩主にも指令を徹底させ、幕府軍を1枚岩となるように連携を強め、また、参加の少ない藩にも、老中という立場からこの乱の鎮圧に参加せぬ者あらば、刑罰もかさんという姿勢で臨んだ、その姿勢から討伐軍には新たに援軍が加わり、12万以上の軍勢に膨れ上がった。
また、松平 信綱は、この一揆がなぜこれほどまでに大きなものに膨れ上がったのか、事の本質を密かに探らせてもいた。


これだけの軍勢になれば、攻め落とすことも容易であるように思えたが、原城の断崖絶壁の要塞が、事を少なからず難しくしていた、そこで、松平 信綱は、陸と海、両方から原城を包囲した。いわゆる兵糧攻めである。

鉄壁の守りは出来るが、こうなると出ることが出来ない、備蓄している食料は少しずつ減ってくる、陸にも、海にも敵がひしめき合いそこを突破するほどの戦力は一揆軍にはない、どうすることもできず。ただ、ただ、ポルトガル船が海に見えることを期待していた。


この頃になると、島原の中ではキリシタン狩りが横行していた。一揆に参加せず、潜伏しているキリシタンを捕える為に蛮行も横行していた。男なら、即殺害、若い女ならば、衆人観衆の中服をはぎ取り、その場で嬲者にし、手足を縛って蓑をかけ、そして火を点けて殺すという、残虐極まりないことさえ横行していたのである。
その魔の手が、時貞の母上、姉上、万に降りかかろうとしていた。母上は万だけは助けたいと小浜村の少林寺の瀬戸小兵衛に預け、どこぞへ逃げるように頼んだが、小浜の関所にてキリシタンと見破られてしまった。


「万様、これまででございます。捕まるわけにいきませぬ。捕まっても死ぬるだけ、ならば私がここで」


そう言って、瀬戸は万を斬って、その後自分も腹を掻っ切って自害した。


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