突然声をかけられ、目の前に綺麗な顔立ちの男の人が立ったことで、その娘は目を大きくし、顔を赤くして口ごもっていた。時貞が、何か話そうかと口を開きかけた時、その娘が時貞にしか聞こえない声で


「救世主様、なして、おっかあとおっとうはゼウスに助けてもらえんかったとでしょうか?」


と問うてきた。最近は面の皮が少し厚くなり、多少の事では動じないようになってきていた時貞と言えど、これには度肝を抜かれた。確かに時貞は、「救世主様」とキリシタンの間では呼ばれていた。それは、時貞の持ち合わせた気品や、風貌、そして神通力と言えるような所業にからいつしか、「ゼウスの生まれ変わり」や、「神から授かった子」という意味と、ゼウスの復活、いわゆるキリストの再来と掛け合わせて言われていた。しかし、長崎ではそのようなことを言うものなど今まで一人としていなかった、長崎の界隈では、間者としている父上の為にも、普通の武家の子息として生活していた。この子は、島原から来たと言ってたが、城下に入って布教を広めたことはない、島原城下は特にキリシタン弾圧が激しい場所、そこに入って布教することは死にに行くようなもの、ゆえに島原の中でも、橘湾に沿った農村や、漁村を中心に活動をしていた。


「おい(私)は救世主じゃなか。人違いやろ。ばってん、それは言わん方がよか。ここは、表だってお偉方はこんばってん(こない)奉行所のものや、お忍びで来たりするとこ、お~ちがそれとばれたら最後、なんばされっかわからん。気よ付けるに越したことはなか。わかっか?(わかるか)」


周りに誰も聴いているものがいないか確かめながら、娘に話した。


「人違いじゃなかと思うとやけど・・・。こがん綺麗か人、そがんおらんもん(いない)」


娘はなおも、すがるような目で時貞を見つめた。どうしてやることも出来ない、なぜ、ゼウスが助けなかったのかなど、時貞にもわからない。ただ、人はみな同じだとゼウスは言っていた、苦しいこと、悲しいことは、ゼウスが全て引き受けてくれると・・・。口にしてこの娘を安堵させたい気持ちはあれど、ここでそのようなことをしては自分の身も危うい。時貞は、その少女の頬を両手で挟み、想いを込めておでこにそっと接吻した。
その接吻は少女の悲しみに沈んでいた心に、とても温かいものが流れてくるようだった、(悲しみも、苦しみもみな、ゼウスと共にある、ゼウスを信ずればどのようなことが起きようとも、心を寄せてくださるのだ)そう、頭の中に聞こえてきた気がした。そして、目の前に立つこの美しい男の周りが、とても美しい光に包まれている気がした。目の前に、自分の求める神が立っているとそう思ったのだ。


「そうじゃ、お~ちの名前は?」


「とよです。」


接吻をした後のこの子顔は、少し明るくなっていた。とよが時貞を神と思ったとは露にも思わない時貞は、妹に買っていた飴を取り出し。


「とよ、これをあげる。ここで、しっかり仕事するんだよ。悲しい時は、それ、この飴の甘いことを思い出しておいば思い出さんね、そしたらがんばれるやろ。」


飴など食べたことがないのであろうなんだかよくわからないといった顔のとよに時貞が、飴を一つ彼女の口の中に入れてやった、飴の甘さにパッと顔が明るくなる。その顔は今まで沈んで不安げな顔と違い、少女の持つはつらつとした笑顔だった、その顔が万と重なった時貞は、手に持っていた飴を彼女に手渡した。万と変わらないくらいのとよに同情しつつも、現実の厳しさを胸に刻んでとよの幸せを願わずにはいられなかった。しかしこれが、この子の最後の幸せな時間になろうとは、この時の時貞には知る由もなかった。


「絹姐さん、あん子な、どうもキリシタンのようじゃ。くれぐれも、口にせんように注意しとってくだされ。」


「四郎ちゃん、なんか言われたとね、顔色少し悪かよ。」


「んにゃ(いいや)ただ、あの子のおっとうとおっかあのことば考えたら、胸の内に痛かとさ。姐さん悪かばってん、もう帰るわ。」


「またね。」


岡場所を離れた時貞は、足早に屋敷の方に戻って行った。


「今帰った。運之丞おるか?すぐに支度をして植野様の屋敷に参るぞ。」


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