歌舞伎観たまま・想うまま(新)

歌舞伎観たまま・想うまま(新)

歌舞伎観劇三昧出来たら、それは無上の喜び・・・地方に住んでいると思うに任せないけれど時間と経費の許す限り。歌舞伎・あ・ら・かるとです。

二階席の手すりの下には朱色の丸い花提灯が下がり、より一層の華やかさを醸し出して、劇場内には蜜やかな人の声とざわめきが広がっている。
・・・と、遠くから杵(き)の音(開幕を告げる拍子木の音)がだんだんと冴えた響きを増してきたかと思うと、一瞬明かりが落ちて場内は闇に包まれる。
観客が息を呑み、潮が引くように静まり返るなかを音もなく緞帳が上がり、闇から色鮮やかな世界へ・・・芝居好きを自認する者にとっては、こたえられない至福の瞬間である。(平成14年菅原道真公御神忌1100大祭記念刊行『天神さまと二十五人』の中『菅原伝授手習鑑と歌舞伎役者15代片岡仁左衛門』の冒頭に書いたもの)


 人はいざ知らず、私めは芝居の始まる前の人のざわめきから幕の上がった瞬間の、あの別世界へいざなわれる一瞬が大好きなのでござりまする。

物心付くかつかないうちから、芝居と劇場になじんで来て、肌に染み付いたのかもしれませぬ。問わず語りの独りごと、歌舞伎よもやま話、ちょいと足を止めて耳を傾けていただきますよう、隅から隅までずい~とおん願い奉ります

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栄太楼雨、成田屋親子


 友人が息子さんの住むお江戸へ。歌舞伎好きな友人、勿論新装なった歌舞伎座観劇も目的の一つ、いや、それが一番の目的かな。お土産色々頂いた中に・・・栄太楼の飴玉、缶の表には成田屋父子が!故團十郎さんは新・歌舞伎座出演決まっていたので、作られていたのだろう・・・今は幻の・・・お土産品となった。

團十郎の【勧進帳の弁慶】と海老蔵の【助六】

以前は狭苦しかった東銀座地下鉄あたりが【木挽町広場】になったり、歌舞伎座ビル内の庭園やいろんな展示広場などの話をしてくれた。私は入院などをして、まだ遠出は控えているので嬉しく聞いた。

昨年来、富十郎・芝翫・勘三郎・團十郎さんと実力のある大物役者が、相次いで彼岸に渡った。

その穴を埋めるべく頑張った役者さん達の中にも、身体の故障が続く。

今は三津五郎さんの膵臓癌(早期発見で手術が出来、退院)、仁左衛門(右肩腱板断裂・・・うちのご隠居と同じだが、ご隠居は左肩だからまだしも。利き腕なので心配)、吉右衛門(味覚障害でかなり痩せた。ストレスと過労が原因)皆さん、身体の不調を隠して医者からストップがかかるまで頑張る、それが役者というものと考えているのだろうし、またそうしないと勘三郎や團十郎亡き後の舞台を埋めることはできなかったのだろう

いずれも現代の歌舞伎界の重鎮だ。歌舞伎役者さん達は小さいころから、鍛練修練を重ね、普通歌舞伎興行でも25日間、時として昼夜出ずっぱり。歌舞伎座以外にもいろんな劇場がああすし、息つく間もなく大阪・京都・名古屋・博多などの大劇場はじめ、地方巡業などが続く。私達普通の人間からは考えられないような過酷な面がある。玉三郎の日ごろのストイックまでの鍛錬と舞台に集中するための生活は、漏れ聞くとびっくりする。

役者さんは舞台に出ていないと不安らしく、沢山出る機会があるのを良しとする傾向があるようだが、日本が世界に誇る伝統芸能歌舞伎のことを考えると、役者さん自身も興行側の松竹さんも、健康管理などを改めて考える必要があるのではないだろうか。などと、舞台を観ることだけしか解らない門外漢の私だが、次代を担う40代30代の染五郎・勘九郎・海老蔵・菊之助・愛之助・七之助などなどが頑張っているだけに、彼らのためにも、重鎮と言われる60代、70代の大物役者さん達にも健康で、素晴らしい舞台を見せて欲しいと、ひたすら願う昨今である。役者の魅力は50代の舞台から…と通の人は云う。

四代目猿之助襲名と同時に、二代目猿翁・九代目市川中車(俳優香川照之)の襲名披露も行われた。

6月筋書

 2月筋書 

六月の博多座は沸きに沸いた。前宣伝にも力が入っていたようだ。私の個人的な会【たまには歌舞伎を観よう会】のチケット予約枚数も始めて百枚を超えた。二月の勘九郎襲名も多く、このところ二回続けての歌舞伎公演は盛況であった。歌舞伎という古典芸能を、独りでも多くの人に!と会を始めてしまった私にとって、まことに嬉しいことだった。
<昼の部>のヤマトタケル7・・・は、以前も観たし、スーパー歌舞伎より古典歌舞伎の方が好みに合うので。今回はパス。猿之助の新・歌舞伎を確立したその才能と努力には頭が下がるが、好き嫌いは如何ともしがたい。

<夜の部>
・小来栖の長兵衛  作 岡本綺堂 
 市川中車(香川照之)、右近、春猿、月之助、猿弥、笑三郎、門之助他。

村一番の暴れ者、嫌われ者の長兵衛が、ひょんなはずみで光秀を討ちとり、今まで鼻つまみとして邪険にされていたのが、村人達から英雄としてちやほやされるようになる…人間の心理を皮肉った滑稽味のある舞台。
中車は熱演だし、セリフも現代語だから、まあ、それなりに・・・とはいっても、歌舞伎の脚本、力めば力むほど周りとの微妙なずれを感じる。
猿翁との長年にわたる親子の葛藤が解け、中年になって初めて歌舞伎界へ。
TVや映画ではその演技力が高く評価され、存在感の強い香川でさえ、歌舞伎という伝統のある独特な舞台だと、どこか浮いてしまう。
周りの軽い脇役さん達でさえ、上手だなあとその比較において感じてしまった。
特に
<楼門五三の桐>石川五右衛門
においては、その違和感がもろに出てしまった感があった。
この一幕は歌舞伎独特の華やかな色彩に彩られ、屋台崩しなどの趣向もあって、歌舞伎絵巻らしいものだが。
まず楼門に登場した五右衛門が小さい、小さい。それは小柄という意味でなく、
国崩しの大悪人とはどうしても思えぬ存在感の小ささ。
【絶景かな、絶景かな】に始まる名セリフも、香川が必至で歌舞伎に挑もうとした努力は感じられても、腹の中から出るあの深みのある口跡ではない。
何となくハラハラしながら聞いていたというのが本音である。

しみじみ・・・歌舞伎というのは、幼いころから修練を重ね、またそういう色合いの環境の中で自然と身につくものの大きさというのを、改めて感じてしまった。
香川のような才能のある俳優でさえ、脇の役者さんにも及ばない。
これからどう立ち向かっていくのであろうか。俳優と役者、二束のわらじは前途多難であるが、もともと長男を市川猿之助の正当な跡継ぎにすべく、父親として
まず自分が歌舞伎界に入らねば、それが果たせない、そのための布石。
始めから困難を承知での、形の上を整えたともいえる今回の襲名であった。
6月猿之助襲名幕 
(歌手 福山雅治による幕、見事だった)
<口 上> 坂田藤十郎・片岡秀太郎・他猿之助一門
亀治郎さんは私は出来れば亀治郎のままの方がいいなと思うのだが、
玉三郎さんは玉三郎のままがいいと思うとの一緒で。
が、市川猿之助家を絶やさないために、ある意味苦渋の策なのだろう。

秀太郎さんが「先代の中車さんは・・・」と口上で述べられたのは、香川照之に
役者というものの難しさ、心構えを先輩として、それとなく説かれたのではないだろうか。中車という役者さん、私は良く覚えている。立派な役者だった。口跡が良く背筋が凛としていた。その声の良さからラジオでの朗読なども多かった。
大きな名跡を継いだ香川照之サン、これからどう俳優と歌舞伎役者の道を歩いていくのであろうか。

<義経千本桜、川連法眼館の場>通称 四の切 狐忠信。
私にとっては今回の上演の中では、これ一つが目当て。前にも観たのだが
やはり新・猿之助の狐忠信は、可愛らしくいじらしさがたっぷりと表現されていた。身の軽さもあって、早変わりや神出鬼没のような動きに観客はすっかり魅了されていたようだ。
藤十郎の義経、秀太郎の静御前、ともにかなりのオトシだから【近くば寄って・・・】観るより、遠い席からその風情所作を眺めた方がいいかもしれないが、
さすが!存在感と品格は見事である。個人的には秀太郎さん好きで、特に
妓楼のお内儀さんとか、演じさせたら絶品。この人が舞台に出るだけで関西の匂いがふんわりと舞台に漂う気がする。なかなかそういう役者さんはいない。
元気に舞台を勤めて欲しいと願っている。

狐忠信がお待ちかねの【宙乗り】で桜の花びらの舞う中を、上がっていくあたりでもう観客は拍手拍手・・・そのあとのカーテンコールでも病気後の猿翁も姿を見せ、観客席は総立ち、大いに沸いた。
幕がしまり、周りの人たち【面白かった、狐忠信良かったねえ】などと興奮気味だった。
個人的には、この一幕に最後の宙乗りは必要なのだろうか?と思う。
狐が親の皮を張った鼓を、義経からいただいて、感涙にむせびながら
いとしそうにその鼓を胸に、弾んで花道を引き揚げていく・・・
従来のそういう演出の方が、余韻が残るように思われて仕方がない。
前に菊五郎の四の切を見たが、宙乗りなどは勿論ないけれど、動きも派手ではないけれど、しっとりとした本来の狐の情愛などが濃やかに伝わり、余韻が残った。でも、猿之助の演出の方が今の若い人たちには、歓迎されるのだろう。
猿之助ワールドの演出は、これでもか、これでもか、と最後の最後まで
出し尽くしてしまう、それが面白い趣向であったり、観客を巻き込んだりはするのだが。どうも・・・ということは、私の体質に合わないということなのだろうか?

いずれにしても、二月六代目勘九郎襲名、六月四代目猿之助襲名、二つの舞台
満員御礼も何度か出て、大盛況と言えよう。博多座も黒字が出たのではないかな。何はともあれ、空席のない観客席、舞台から伝わる役者さんたちの熱気と観客の熱気が一体となった雰囲気は、ほんとに気持ちの良いものだった。

それぞれのこれからの活躍、成長を心から祈りたい。

 

昨年以来勘三郎さん、團十郎さん、芝翫さん、富十郎さんと次いでの逝去で、何だか胸の中にぽっかり穴があいたような感じの日々だった。
2月勘太郎くんの【六代目勘九郎襲名披露公演
6月亀治郎サンの【四代目猿之助襲名披露公演(二代目猿翁・九代目市川中車襲名も同時に)】それぞれ襲名披露公演という、役者にとっても、観客にとっても一度きりの舞台だったが、内容充実客席も沸き、役者さんたちも熱かったのに・・・なんとなく何となくブログにUPする気持ちになれず、今はもう秋10月となってしまった。

自分自身の観劇の記録として、演目だけでもUPしておこう。

二月中村勘太郎改め中村勘九郎襲名披露 2月勘九郎襲名披露看板 2月筋書
<昼の部>
吹雪峠  宇野信夫 作・演出(梅玉・孝太郎・扇雀)
 心理劇。興味深いけど、華やかであるべき襲名披露の幕開けとして暗すぎるのでは?と思った。三人三様、なかなかリアルな演技でよかったけれども。

身替座禅 岡本柿紅 作。(勘九郎・七之助・仁左衛門他)
 これはもう語る必要もないくらいの演目。父の勘三郎さん十八番の一つ。
あの憎めない可愛らしさと品の良さの右京役を、息子の勘九郎がどこまで継承できるか?表現できるか?
 やや硬い、お手本通りという感じはあったけど。仁左衛門さんが怖~い、そしてかわゆい、奥方様を。父勘三郎さんと仲の良かった仁左衛門さん、勘九郎・七之助兄弟を懸命にバックアップしていらっしゃる姿に胸を打たれる。

・河内山(天衣紛上野初花・・・てんにまごう、うえののはつはな)
       仁左衛門・橋之助・勘九郎・弥十郎・亀蔵他
 楽しみにしていた演目。河内山宗春の役は、仁左衛門さんか吉右衛門さんがいいと思っている私。松島屋さんの河内山は…久しぶりで嬉しかった!
『悪に強きは善にも・・・』の名せりふ、”待ってました!”
口跡と姿の良さ、玄関先での『馬鹿め!』も小気味よい!ご隠居もハマって、声を掛けていた。勘九郎の松江出雲守、橋之助の家老高木小左衛門、亀蔵の北村大膳、弥十郎の和泉屋清兵衛、腰元波路は新悟(弥十郎の息子サン、名題昇進披露目)

<夜の部>

俊寛 近松 作 (平家女護島)
    
勘九郎・橋之助・孝太郎・扇雀・弥十郎他
亡き(と書きたくない)勘三郎さんが得意としていた役を今回は仁左衛門さんが演じる。仁左衛門さんの俊寛は初見なので、とても楽しみだった。丁寧な演じ方、
品よく俊寛の情愛の深さがぐんとにじむように出ていた。花道を波に仕立てて
もまれていく演出は上方の手法か?上から眺めるととてもリアルで良かった。
幕切れの切なさも胸をえぐるような俊寛の寂寞とした気持ちが伝わって来た。
孝太郎の千鳥は、いじらしさと素朴な可愛らしさが強調されていて、所作も丁寧だった。弥十郎さんはいつもの如く悪役ぶりを三枚目的に大きく演じていた。

口 上
裃を付けた役者さんたちがずらりと並ぶ舞台。口上は【一幕物】の芝居だと思う。
地方公演の時はどうしても役者の層が薄いのが気になるが、今回は仁左衛門さん親子がしっかり加わってバックアップして下さっている。梅玉さんも。

勘太郎くんが目を見張る程に、大きな存在感となった。時として言葉は詰まるが
しっかりと中村屋一門を!父の時のようによろしくと、お弟子さんの名前を一人ずつ挙げて・・・。七之助も涙が、声が詰まる。ご隠居が思わず【がんばれ!】と声を掛ける。仁左衛門さんは二人の兄弟の親代わりという感じで、愛しそうに眺めながら二人を紹介される。梅玉サン、橋之助さんはこれまた勘三郎さんの義弟、兄弟の叔父としての言葉を真摯に。
観客も精一杯の拍手、大向こうもかけ声に心を籠めて。
これから~~勘九郎・七之助の成長を、歌舞伎の発展を心から祈った夜であった。勘三郎さん、安心して下さい。お兄ちゃんは驚くほどの成長ぶりだし、七之助君も女形として冴え冴えとした美しさが出せるようになったし。なんて身内感覚で観てしまうところが、勘三郎さんの魅力に取りつかれたフアンの一人なんだろうな私もと思った。

2月勘九郎襲名披露公演2 博多座大提灯 
 ・義経千本桜(渡海屋、大物浦)
 渡海屋銀平実は新中納言知盛・・・勘九郎。 
 銀平女房お柳実は典侍の局・・・七之助。
 源九郎判官義経・・・梅玉
 武蔵坊弁慶・・・弥十郎
 相模五郎・・・錦之助
 入江丹蔵・・・亀蔵

昼の部の【河内山】と夜の部の【知盛】は私が一番楽しみにしていた演目だ。
勘九郎は知盛になってからが圧倒されるような入れ込み、熱演。
素直に凄いな!と思った。お父さんにはない【野太さ】【楷書的な芸風】
見終わった後勘九郎の弁慶、海老蔵の富樫、菊之助の義経・・・という
配役で【勧進帳】を見たいなと思った。
勘九郎は荒事もできる役者だと思う。
品格・風格のある梅玉さんの義経はじめ、しっかりした舞台だった。

・芝翫奴・・・橋之助。 変化舞踊。

夜の部の最後は変化舞踊。勘九郎には祖父、橋之助には父に当たる亡き芝願を念頭に置いた狂言選びだろう。明るい色彩の踊りで夜の部が終わった。

★父勘三郎との早すぎる別れは、勘九郎・七之助兄弟にとって辛くても乗り越えなければならない出来事。悲しみをこらえて、熱演する二人に大きな拍手と
温かなまなざしを観客は注いでいた。時として客席には涙をぬぐう人の姿も多かった。
きっと勘三郎さんも空のどこかで、博多座での息子や中村一門、盟友仁左衛門さんはじめ暖かな役者さん達の心に、涙しながら見守っていることだろう。
 中村屋!永遠なれ!



歌舞伎界&ほうおう

 

2013・8・26

私自身の「観劇ノート」のつもりで作ったこのブログ。随分とご無沙汰である。勘三郎さん、團十郎さんと続いての訃報に何だかガックリして、今年2月の博多座【勘九郎襲名披露公演】6月の【市川猿之助襲名披露公演】・・・(どちらも、近年まれなくらいの盛況だった)舞台も役者さんたちも熱かった。にも拘らず、結局感想すら書けないままに終わった。父を亡くした勘九郎や七之助の目を見張るような成長ぶりや、若い人を引き付ける猿之助ワールドのスピーディで華やかな舞台、それぞれ興味深いのだが、それでも書けなかったのは私自身が寂寥感を引きずっていたせいだろう。

三津五郎さん、入院!
を知らせるメールが今朝友人から届いた。ネットでみたところ、8月納涼歌舞伎を終えるまでは頑張って出演、千穐楽あと入院とのこと。8月の歌舞伎は亡き(こういう字を頭につけなければいけないなんて)若き日の勘三郎さん(勘九郎時代)とともに、三部制の納涼歌舞伎を提唱、当時の若手達が意欲的な舞台を見せた(その頃の舞台を東京で仕事をしていた娘は、しっかり・たっぷり観ている。羨ましい。その頃私はまだお江戸通い出来る状況ではなかった)
三津五郎さんは、勘三郎さんとは同い年で、仲の良いことでも知られている。
團十郎・勘三郎・芝翫・富十郎と重鎮が逝ったあと、勘九郎・七之助・はじめ若手から時代を背負う役者へと育って来た世代の人たちに、しっかりと芸の継承をして欲しい、大切な存在でもあるのだから。
勘三郎さんとのコンビでの狂言【棒縛り】のなんとも言えない面白さ、今も私の中でのベストな演目に入っている。
どうぞ、元気になってまた定評のある踊りをはじめ、佳い舞台を見せて欲しい!と願わずにはいられない。

お江戸が遠くなったなあ・・・・

新・歌舞伎座がスタートして、【こけら落とし興行】毎月役者の幅の厚い、興味ある舞台が続いている・・・・が。
私は勘三郎さんが再入院する直前の5月の【平成中村座】最終月公演(浅草)を観て以来、お江戸の芝居にはご無沙汰である。
年に何回か、せっせと上京して横浜在住の長女宅を起点に【孫達に会うこと】と【歌舞伎や文楽を観ること】は、唯一私の贅沢な趣味であり、道楽でもあったのだが。
人生にはいろんなことが起こるものだ。
夫の2か月半の整形入院、私自身の手術・入院、他にも私的なことが続いて、いつの間にか足繁く通っていたお江戸も遠くなった。
【新・歌舞伎座】は逃げていかないし、若手だった役者さんたちが、目覚ましい成長ぶりを見せているので、まだまだこれから楽しみは多いから~~と自分に言い聞かせるものの、毎月購読している【演劇界】や松竹から送られて来る小冊子【ほうおう】などをみていると、観たい・行きたい気持ちが募ってくる。
だが・・・もうしばらくは静養期間と定めて、まずは体力をしっかり取り戻すことに専念して、今夏の38度に近い猛烈な暑さを、乗り越えなければ。

札幌・小樽への小さな旅を終えて、画像の整理でもと思っていた矢先の昨日12月5日朝、TVに【中村勘三郎さん逝去】のニュースが!飛び込んだ。

何も手に着かず次々放映されるTV画面に見入りながら、現実として受け入れられなかった。再入院ICU、人口呼吸器などの週刊誌の見出しに「もしかしたら・・・」という不安と同時に、あれだけ前向きな役者魂の持ち主、死神の方が苦笑いして去ってくれるだろうと、僥倖を祈っていた。

でも、現実に勘三郎さんは、57歳で逝っちゃたんですね。役者は50代からがほんとの【華】円熟味が加わり、ますます芸に深みが増して、いずれは、ご自分が三歳で初舞台なさった【桃太郎】のように、新・勘九郎さん親子と舞台をつとめる日を、楽しみにしていらしただろうに。

平成中村座筋書と私の歌舞伎部屋18代目勘三郎襲名披露公演は2005年3,4,5月にわたって行われ、3ヶ月通い詰めて舞台を堪能したものだった。

今年6月長女を誘って浅草での【平成中村座】で、難聴を克服しての元気な舞台復帰の姿にほっとしたものだった。客席からも大きな拍手と掛け声が飛んでいた。あれが私にとっての最後の勘三郎さんの舞台だった。このあと再入院手術となったのだから。娘は独身時代会社が比較的歌舞伎座に近いこともあり、まだ若いやる気満々の勘三郎(当時勘九郎)さんを、十二分すぎるほど観ていたようだ。仁左衛門さんが孝夫時代、玉三郎との【孝・玉コンビ】が一世を風靡し、今は熟練となった三津五郎さん達も若手として大活躍、歌舞伎ブームの火つけとなった頃である。娘も大好きだった勘三郎さんの逝去に、涙していることだろう。

かって四国金毘羅歌舞伎に娘が招待してくれて、若き日の勘三郎さんや橋之助,翫雀、扇雀さん達と食事を共にする機会があったことなどを、その時も勘三郎さんのトークはほんとにおもしろかったし、歌舞伎にかける情熱は凄かった。この金毘羅歌舞伎がきっかけで【コクーン歌舞伎】をやろう!と演出家串田和美さんとのコンビが生まれ、それが江戸時代そのままの芝居小屋を作りたい、広場さえあればどこででも歌舞伎が出来る【平成中村座】へと発展していったのだった。

今父を失ったばかりの新・勘九郎、七之助兄弟は京都南座に出演中。悲しみを胸に秘めて懸命に舞台を勤めていることだろう。芝翫サンの娘さんである妻の好江さんは、天衣無縫なところも血筋を受けついている勘三郎さんの良き伴侶、歌舞伎界で育った女性ならではのサポート、涙を流すのはいろんなことが終わってからになるに違いない。以前読んだ勘三郎夫婦のエピソードなども思い出す。

二人の息子にとって父親の早すぎる死は、今後何かと影響を与えるだろうが、日本の誇る400余年続いた伝統芸能【歌舞伎】をしっかりと守って、研鑽を励み、他の同世代の役者さんたちと手を携えて進んで欲しい。

勘三郎さんが突発性難聴で昨年三月の博多座公演に来れなかった時、私の会の若い勘三郎さん大好きなSさんが一人で千羽鶴を作り、楽屋の勘九郎さんに届けた。楽屋風呂から上がったばかりで、Tシャツにジーパンできちんと正座して応対してくれた新・勘九郎サン。気持ちの良い素直でひたむきな青年歌舞伎役者を感じた。お父さんの持って生まれた洒脱さとはまた違ったま持ち味だろうが、真面目にに歌舞伎と取り組み、父の芸を学び日本の守るべき大切な文化を受け継いでいこうとする姿勢に清々しいもの爽やかさを感じたものだった。新・勘九郎さんは父親の芸を継承しながらも、自分は自分なりの役者いいのだよって言いたい気持ちである。責任に押しつぶされないで、わが役者の道を築いて下さい

暫くはまだ現実とは思えない勘三郎さん逝去。その姿を、TVなどで追うことになるだろう。まだ10代初めの先代勘三郎に入門(本人も小学生くらいの年齢で)息子勘九郎の18代勘三郎襲名、その息子である新・勘九郎、七之助と三代にわたり仕えてきた小山三サンの悲しみもいかばかりか・・・・平成中村座での新・勘九郎襲名の舞台に中村屋最古参のお弟子さんである小山三サンを挨拶に出すという、異例のことは、今日という日があることを、本人は知らないながらも予感のようなものだったのかもしれないなどと、思ってしまった。

勘三郎さんと仲の良い仁左衛門さんや三津五郎さん達も、辛い想いの中にいらっしゃることだろう。来春二月、勘九郎襲名公演最後の舞台は博多座。勘三郎さんの役柄は、仁左衛門さんが父親代わりを勤められる。

ヒトの何倍も貪欲に芝居を愛し、色々チャレンジし、風のように駆け抜けていった57年。余りにも忙しすぎ、急ぎすぎたのか?

今後の歌舞伎がゆるぎないことを、役者さんや松竹さんのありように期待するのみである。

 

(これを書いた後、次々に追悼番組が放映され、勘九郎さんの京都での口上に涙し、在りし日…という実感もまだないのだが・・・の姿に涙してしまった。エッセイスト関容子さんのコメントに胸熱くなったり。落ち着かいない時間の中にいます)

関容子サン…私の好きなエッセイスト。歌舞伎関係の著作が多く、特に【中村屋三代】とか【役者は勘九郎(18代勘三郎)】とか)『花の脇役』で講談社エッセイ賞、2000年『芸づくし忠臣蔵』で読売文学賞芸術選奨文部大臣賞

歌舞伎を愛し、歌舞伎の将来を模索し、観客を喜ばせるには!をいつも考えていた勘三郎さん、新しいものにチャレンジしながらも、従来の古典歌舞伎はしっかりと守ってわが子に伝えてきた。その中村屋一門の結束や家族の様やNYの活躍の様子は、しばしばTVに登場したから、、歌舞伎に興味のない人でも、カンザブローさんの名前は知っているだろう。活躍の場も広く、その人柄も時としてハラハラするようなニュースにもなったりするほど、天真爛漫な一面もずっと持ち合わせていて、とにかく私は舞台の勘三郎さんを見るのが好きでした。贔屓の役者さんの中でもベストのうちに入ります。

【踊りの神様】と言われた六代目菊五郎(母方の祖父)の遺伝子と天才と呼ばれながらも(確かに持って生まれた才能も凄いが)その影での努力はすさまじく、踊りのうまさも定評があり、立ち役(男役)女形いずれも演じることのできる役者さんだった(尾上菊五郎さんもそうである)

横浜に長女が住んでいるおかげで、歌舞伎座には随分と通うことが出来た。18代目勘三郎襲名披露公演は2005年3,4,5月にわたって行われ、3ヶ月通い詰めて舞台を堪能したものだった。

今年6月長女を誘って浅草での【平成中村座】で、難聴を克服しての元気な舞台復帰の姿にほっとしたものだった。客席からも大きな拍手と掛け声が飛んでいた。あれが私にとっての最後の勘三郎さんの舞台だった。このあと再入院手術となったのだから。娘は独身時代会社が比較的歌舞伎座に近いこともあり、まだ若いやる気満々の勘三郎(当時勘九郎)さんを、十二分すぎるほど観ていたようだ。仁左衛門さんが孝夫時代、玉三郎との【孝・玉コンビ】が一世を風靡し、今は熟練となった三津五郎さん達も若手として大活躍、歌舞伎ブームの火つけとなった頃である。娘も大好きだった勘三郎さんの逝去に、涙していることだろう。

かって四国金毘羅歌舞伎に娘が招待してくれて、若き日の勘三郎さんや橋之助,翫雀、扇雀さん達と食事を共にする機会があったことなどを、その時も勘三郎さんのトークはほんとにおもしろかったし、歌舞伎にかける情熱は凄かった。この金毘羅歌舞伎がきっかけで【コクーン歌舞伎】をやろう!と演出家串田和美さんとのコンビが生まれ、それが江戸時代そのままの芝居小屋を作りたい、広場さえあればどこででも歌舞伎が出来る【平成中村座】へと発展していったのだった。

今父を失ったばかりの新・勘九郎、七之助兄弟は京都南座に出演中。悲しみを胸に秘めて懸命に舞台を勤めていることだろう。芝翫サンの娘さんである妻の好江さんは、天衣無縫なところも血筋を受けついている勘三郎さんの良き伴侶、歌舞伎界で育った女性ならではのサポート、涙を流すのはいろんなことが終わってからになるに違いない。以前読んだ勘三郎夫婦のエピソードなども思い出す。

二人の息子にとって父親の早すぎる死は、今後何かと影響を与えるだろうが、日本の誇る400余年続いた伝統芸能【歌舞伎】をしっかりと守って、研鑽を励み、他の同世代の役者さんたちと手を携えて進んで欲しい。
勘三郎さんが突発性難聴で昨年三月の博多座公演に来れなかった時、私の会の若い勘三郎さん大好きなSさんが一人で千羽鶴を作り、楽屋の勘九郎さんに届けた。楽屋風呂から上がったばかりで、Tシャツにジーパンできちんと正座して応対してくれた新・勘九郎サン。気持ちの良い素直でひたむきな青年歌舞伎役者を感じた。お父さんの持って生まれた洒脱さとはまた違ったま持ち味だろうが、真面目にに歌舞伎と取り組み、父の芸を学び日本の守るべき大切な文化を受け継いでいこうとする姿勢に清々しいもの爽やかさを感じたものだった。新・勘九郎さんは父親の芸を継承しながらも、自分は自分なりの役者いいのだよって言いたい気持ちである。責任に押しつぶされないで、わが役者の道を築いて下さい

獅子がすがる子獅子を谷に突き落とすように、芸を伝えるためには厳しい師匠であった勘三郎、それを素直に受け入れて頑張ってきた勘九郎・七之助兄弟、二月の勘九郎襲名披露公演、しっかりと応援したいと思う。今後の歌舞伎のためにも。

暫くはまだ現実とは思えない勘三郎さん逝去。その姿を、TVなどで追うことになるだろう。まだ10代初めの先代勘三郎に入門(本人も小学生くらいの年齢で)息子勘九郎の18代勘三郎襲名、その息子である新・勘九郎、七之助と三代にわたり仕えてきた小山三サンの悲しみもいかばかりか・・・・平成中村座での新・勘九郎襲名の舞台に中村屋最古参のお弟子さんである小山三サンを挨拶に出すという、異例のことは、今日という日があることを、本人は知らないながらも予感のようなものだったのかもしれないなどと、思ってしまった。

勘三郎さんと仲の良い仁左衛門さんや三津五郎さん達も、辛い想いの中にいらっしゃることだろう。来春二月、勘九郎襲名公演最後の舞台は博多座。勘三郎さんの役柄は、仁左衛門さんが父親代わりを勤められる。ヒトの何倍も貪欲に芝居を愛し、色々チャレンジし、風のように駆け抜けていった57年。余りにも忙しすぎ、急ぎすぎたのか?今後の歌舞伎がゆるぎないことを、役者さんや松竹さんのありように期待するのみである。
(どう書いていいか・・・気持ちの整理がつかないままに
書きなぐりました)

 

博多座昼の部筋書きより拝借  博多座筋書きより借りる

今回の公演は、昼・夜ともに演目の並べ方いいなぁ、見終わったあとの充実感があった。昼の部に満足して、でも、きっちりした時代物も見たいなとさらに夜の部に期待して出かけた。(画像左は昼の部より、右は夜の部より。筋書きからお借り致しました)
【夜の部】
時今也桔梗旗揚(ときはいまなり、ききょうのはたあげ) 鶴屋 南北 作 
武智日向守光秀・・仁左衛門、妻皐月・・魁春、四天王但馬守・・吉右衛門、小田上総介春永・・梅玉、森 蘭丸・・四代目歌昇、他

狂言としての内容は知っていたが、観るのは初めて!初見というのは、わくわくするものだ。光秀役の仁左衛門にとっては、襲名以来二十年ぶりに演じる役なのだと筋書きで知った。
武智光秀は明智光秀。小田春永は織田信長。礼儀上本名はまずいが観客にとっては「ああ」とすぐにうなずける変名が、歌舞伎の場合よく出てくる。

<馬盥の場>

あらすじ 
毛利氏征伐のため本能寺にいる春永、諸大名から献上の生花が並ぶ。春永は真柴久吉(羽柴秀吉)からは馬盥に活けた花が。これを忠誠の証とほめる一方、紫陽花と昼顔を献上した光秀のには、色の移ろいやすい花は光秀の変わり易い心だと不快感を露骨にあらわす。傍に控え、兄の蟄居が解けるよう願う妹の腰元桔梗の申し出を退けるが、蘭丸はじめ家来のとりなしで、やっと光秀のお目通りが許され、光秀の登場となる。
茄紺(なすこん)よりもっと深い深い渋い紺色の裃を身につけた光秀は、眉目に憂いを漂わせて、仁左衛門重厚な雰囲気。声音もぐんと落として、春永(梅玉)の高めのせりふと対照的で、光秀の心境を表している。
 馬盥【馬を洗う盥】で酒を飲まされ、目の前で望んでいた名刀日吉丸を他へ与え、光秀の領地さえとりあげる。それ程の屈辱にも耐える光秀、が、下し置かれた箱に入っていた一筋の黒髪!それはかって越前国で流浪中の光秀が、客をもてなすために妻皐月が髪を切って売り、その費用としたその時の黒髪。買ったのは春永の家来だった。光秀の境遇を哀れんで召抱えた春永だったが、その後光秀が春永に諌言をしたりするのはその恩を忘れたためだ、思い出せ!と満座の中で夫婦の過去の恥辱をあばく春永にさすがの光秀も堪忍袋の緒が切れ、妻の切り髪の入った箱を手に胸中決するものがあり、その決意を表情に表しながら自分の宿所に去るのだった・・・・・・
とまあ、長々と詳しく書いたが、今で言えばイジメ、春永は機を見るに敏、率直な久吉とは相性がよく、真面目で理屈っぽく、真正面から自分をいさめたりする光秀は小ざかしい嫌な奴!と、いらいらさせられたのだろう。ほんとに相性が悪い主従だったのだろうなあ。
仁左衛門は重なる屈辱にひたすら耐えてはいるものの、本当は何を考えているのだろう?と腹の中が解らぬ怖さをもった光秀として演じ、時折除く表情に後半に続く謀反に踏み切る気持ちを上手く表していた。さすが!
<愛宕山連歌の場>
数々の屈辱に耐えたものの、【もう、これまで!】と謀反の意を決した光秀は、宿所に帰り、妻皐月に切り髪を見せ、事の次第を語る。夫に与えられた恥辱を嘆く妻。魁春は控えめにしっとりと演じていた。
春永の上使が到着。領地替え(左遷です、つまり)と察していた光秀は、一陣の風で明かりが消えたその時に、かねて用意の白の死に装束に。辞世の句を詠む「時は今 天が下知る皐月かな」(謀反の決意がこめられている)、その時遠く陣太鼓の響きが!それを聞いた光秀は上使の二人を刃にかけ、腹切刀を乗せていた三宝を踏み砕く。
駆けつけてきたのはよろい姿の四天王但馬守。光秀は恥辱を与えられて宿所に戻り、謀反を決意、その手はずを整えていたのだった。
本能寺に向かった光秀の軍勢が春永に従う家臣たちを討ち取ったり!の知らせに、会心の笑みを浮かべ、春永の首を打つべく、愛宕山を後にするのだった。【わが天下来たれり】と。それが【三日天下】であることを知らずに・・・・・。世に有名な【本能寺の変】直前の光秀・・・はこうであったろうか・・・と南北が描いた心理劇

心中の想いは別としてじっと我慢の子の一幕目、一陣の風とともに白装束になり、神妙に切腹と思いきや、がらり変って謀反の意をあらわに、最後は高笑いを見せる光秀。従順さの裏側にはこういう一面を隠し持っていたのか・・・と思わせる実悪ぶりだ。仁左衛門は四谷怪談の伊右衛門や亀山鉾の着流しの実悪もよく似合う二枚目の役者さん。私はそんな役の仁左衛門さんが好きだ。憤怒を抑えた冷ややかな表情に凄みがあり、いいなあ!と思わせる。勿論与三郎や福岡貢、あるいは御所五郎蔵などの二枚目は当然だが。
始終押さえた深い重いせりふ、幕切れにはその押さえたものを一気に吐き出す勢いがあり、憎憎しげにも見える。
吉右衛門はまあ、お付き合いってところの役柄か。「吉右衛門さんも出とんしゃったよ」位かな。
夜の部の吉右衛門さんの見せ所、聞かせどころは【口上】だったと思う。
森蘭丸・力丸は美少年小姓のイメージがあるので、荒事隈取はちょっとびっくりしたが、この演目を考えると当然だろう。新・歌昇、種之助兄弟、千穐楽でも声朗朗(すぎるくらい)溌剌と意気込みが溢れていた。
梅玉さんの部屋子となった梅丸くん、妹桔梗で登場、愛くるしい可愛い女形さんだ。期待できるなあ(二回観劇、千穐楽は声が少し枯れていた、25日間ぶっとしだもの、無理もないこと。これから頑張って声の出し方習得していってね)
若い人たちがこうして出てくることは、ほんとに嬉しい。歌舞伎を存続し守っていくには、なんといっても次代を担う若手が頑張ってくれなきゃあ!
若い歌舞伎フアンを育てるためにも。
役者さんの層が厚い舞台だから、じっくり見せてくれるのが嬉しい。歌舞伎は並び大名や腰元サンも良くなければね。

ここで幕間、お弁当時間。

お弁当何にしようかな   観劇弁当

<口上>
やはり口上は一段と華やか。新しい名跡のご披露だから。吉右衛門サン始め皆さんの暖かさが感じられる口上だった。
三代目又五郎を継ぐということは、歌昇さんにとっては、どんなにか嬉しくもあり、責任の重いことであったろう。
一年前くらいに襲名のことが世間に発表され、それからのここまでの道のりは大変だったと思う。
そして、播磨屋存続のためにバックアップする吉右衛門さん、我がこと以上に力を入れ寸暇を惜しんで頑張って来たに違いない。
東蔵さんの口上、よかったな。この人の口上はいつも穏やかだが、ちゃんと意を尽くしてその演技力や存在感を感じさせるものがある。仁左衛門さんはお人柄そのままの真摯な口上、三津五郎さんが十年ぶり・・・ということは八十助から三津五郎への襲名披露公演以来ということ。私は東京や四国でちょいちょい見るので、「えっ、そうなの?」と驚いた。の博多だというのには、驚いた。
染五郎さんの「半分は博多の血」にひときわ拍手が大きかった。歌昇さん、種太郎さんI(いやあ、しっかり成長されたなあ)決意の程伺いましたよ。最後の吉右衛門さんの【隅から隅までずい~~と】一段と声を張り上げて、あの微妙な抑揚で(満足!)よかったなあ。見ている私も気持ちがわあと高揚した。いつも思うが口上は素晴らしい一幕です。

<英彦山権現誓助太刀(ひこさんごんげん ちかいのすけだち) 毛谷村 一幕 天明六年(1786)人形浄瑠璃として大阪で初演
この毛谷村六助の役は新・又五郎の曽祖父三代目歌六が持ち役とし、以来初代吉右衛門が当たり役とし、今の吉右衛門まで【播磨屋のお家芸】として受け継がれてきた。ほのぼのとした楽しめる狂言である。

【六助は豊前の国(福岡県)の英彦山の麓、毛谷村に生まれた剣豪。

加藤清正の家臣として、名を「木田孫兵衛」と改め、豊臣秀吉の朝鮮出兵に赴き、一番槍の名を馳せたとも言われている。墓も毛谷村に残っている】

毛谷村六助・・三代目又五郎、お園・・芝雀、後室お幸・・東蔵、
微塵弾正・・歌六、  斧右衛門・・吉右衛門
<あらすじ>
剣の達人で毛谷村に住む六助は親孝行で素朴で優しい人柄。小倉藩剣術師範を競う試合で、余命僅かの母親を喜ばせたいという弾正の言葉に、母親の四十九日忌を済ませたばかりの六助は、その気持ちに打たれ、とわざと負けてやるのだが・・・。この弾正実は京極というのが本名で、六助の剣の師一味斎とその姉娘を殺害していたのだった。
そういうこととは露知らぬ六助は、偶然弥三松という小さな子供を託されて預かっていた。その子は実は一味斎の孫だったのだ。
 そんな中訪ねてきた旅姿の老女、六助の腕前を見た老女は親子の縁を結ぼうといいだす。??と驚いているところへ、一人の虚無僧が外に干してあった子供の着物を見て、六助こそ姉の命を奪った者と思い、切りかかる。虚無僧を女と見破った六助は、なんの遺恨で・・・と問いただす。この虚無僧は父と姉の敵を求めて姿を変えて旅をしていた師の娘で六助こそ、父が定めた許婚だった。
力持ちで臼をも持ち上げるお園が、急に恥ずかしがって娘らしい仕草をみせるところなどは、ほほえましくて笑いを誘う。お園役者の見せ所だろう。
旅の老女は実はお園の母親、二人は三々九度の杯を交わし、六助は敵弾正を討ちにと勇み足。お園が手折った紅梅を襟に差し、義母のお幸が差し出すはなむけの椿の枝を右手に、左手に弥三松を抱いて幕となる。
 田舎の質素な住まいの舞台だが、素朴なきこりの六助が武士の姿になるための着替えで、はにかみながらもお園がはかまなど手伝うところは、女武道者の雰囲気残しながらも可愛く演じて、大柄な芝雀だけにその仕草がほほえましい。
東蔵さんの母お幸は、いつの舞台でも脇での存在感が大きい。安心して見れる役者さんだと思う。

又五郎の六助は、ちょっとふけ気味かな?でも、六助の素朴さが自然に出ていて
真面目なところなど、又五郎の芸風そのままかも?と思えたりした。播磨屋の
お家芸で吉右衛門が演じるこの大役に懸命な姿が伺える。
吉右衛門の斧右衛門役は、今回の舞台引き立て役として、フアンにとってはご馳走みたいなものだろう。以前勘三郎が「菅原伝授手習鑑」寺子屋の場で「よだれくり」をやったのと一緒かな。(勿論 
管丞相 は仁左衛門!)
登場しても暫くはなかなか頬かむりを取らず、顔を見せないので、近くの席の人たちも吉右衛門さんとは気づかずにいたようだった。
頬かむりをとったときに、初めて「えっ!」という声が。太いゲジゲジ眉毛をピクピク動かしながら、愛嬌たっぷりに大播磨屋が演じていた。又五郎さん、力付けられたことだろう。

寿 靭 猿(ことぶき うつぼざる)常磐津による舞踊劇。
        天保九年(1838)江戸市村座初演。
 狂言のうつぼ猿をふまえている。 うつぼ・・・矢を入れるための道具。

猿曳寿太夫・・・三津五郎、 女大名・・・松緑、  奴 橘平・・・染五郎
あらすじ
奴の
橘平を供に鳴滝八幡へ主君の代参に来た女大名三芳野は、主に言いつけられたうつぼに張る猿の皮の調達を頼まれていた。丁度そこへ小猿と猿曳寿太夫がやってくる。もっけの幸いと猿を譲れ譲らねば弓で射殺すと脅す。涙を呑んで猿を撃ち殺そうとする猿回し、が振り上げた鞭を踊りの合図かと思った小猿は無邪気に「舟こぐ真似」など芸を披露する。その可愛らしさに、心打たれた三芳野は
猿を連れて立ち去れと猿曳寿太夫に言うのだった。お礼に小猿に三芳野の武運長久を祝って舞わせ、めでたし、めでたし、これも祝いの楽しい舞いの一幕。

三津五郎は言うに及ばず、染五郎、松緑ともに踊りの宗家。軽やかに舞う。染五郎の奴は「良い男」繻子奴。松緑は面白げな化粧をした三枚目。武勇優れた女大名だが、小猿のいじらしさにおいおい泣くかと思えば、良い男の奴を口説き(ごっつい醜女の女大名がなよなよと恋の手管、がアンバランスで笑いを誘う)
が、なんといっても小猿があどけなく、一つ一つの動作に笑いや拍手が起こる。
達者な役者さんたちも、子役には勝てませんね。

劇場内  劇場内売店

 千穐楽明るい気持ちで劇場を後にした。今月の公演は昼・夜ともに満足だったが・・・これだけの顔ぶれで解りやすい演目でバラエティにとみ、歌舞伎らしい狂言建てで見ごたえのあるにも関わらず、空席が目立ったのはなんとも悲しいことだった。舞台から眺めた役者さんたち、切なかったことだろう。


先日の新聞でも、博多座は赤字!と報道されていた。歌舞伎だけが原因ではないのだろうが、もう少し日本の伝統芸能歌舞伎に足を運ばせる工夫はないものだろうか?観客を育てるということも、劇場経営の大きな役目だろうと思われる。市が関わってもいるのだから、文化普及の意味でもう少し観客の層を広げる工夫は出来ないものだろうか。福博の財界も底冷えで文化に対するバックアップどころではないのだろうけれど。

上呉服町にあった大博劇場が幕を引いて以来半世紀余、福博の町には歌舞伎をきちんと上演できる劇場がなくなったことも原因の一つだろう。歌舞伎を観る機会などないままに過ごした人たちに、歌舞伎になじんでもらうには根気の要る観客育て・・・が必要だと思う。趣味も多様化し、芸能もさまざまなジャンルがあるなかで、歌舞伎への入り口を開き導くことを上手にやらなければ、歌舞伎観客の枠は広がらないだろう。三階席などに高校生の団体をみることがある。いいことだと思う。ただ、連れてきただけ、見せただけでは、現代の10代の若者達には「なんか難しかぁ、解らん、面白うなか」で終わるのかも知れない。事前の「歌舞伎入門・導き方」がとても大事だと思う。関心を持たせ、理解できるちょっとしたきっかけのようなものが。もしかしたら引率する先生方への「歌舞伎とは」という教育?楽しみ方を教えることも必要なのかな。


  博多座劇場内


三代目中村又五郎(前名 歌昇)、四代目中村歌昇(前名 種太郎)
親子揃っての襲名披露公演に、吉右衛門、仁左衛門、三津五郎、梅玉、魁春、歌六、錦之助、松緑、染五郎・・・など、久々に充実した厚みのある役者揃いの公演だった。演目も芝居・踊り・狂言と上手く組み立てられていた。襲名する役者さんは地道な中堅、これからの若手なので一般観客にはなじみが薄いかも知れないが、脇を固め盛り上げる役者の顔ぶれが贅沢なので「この公演見逃してはなるものか!」と私も気合が入って(笑)観劇である。

まずは【昼の部】から。
春調娘七種
(はるのしらべ むすめななくさ)
曽我五郎・・四代目歌昇、 曽我十郎・・錦之助、芝雀・・静御前

襲名公演にふさわしい春の七草をモチーフとした華やかな祝いの舞踊だ。
歌舞伎にはいわゆる「曽我物】と呼ばれる,曽我兄弟のあだ討ちを扱ったものが多いが、これもその一つ。
華やかな舞台装置、正月七草の行事に事寄せて、父の敵工藤祐経の館に兄弟が芸人として紛れ込む、そこへ静御前が!何故静御前が登場するのか?あはは、深く考えてはいけないのだ。ここらあたりが、江戸の歌舞伎の虚実交えての面白さ!曾我兄弟も義経に関する物語も、江戸の人達には大人気だったのだから。三人それぞれにきれいに華やかに舞い納めて、客席には華やかな余韻が漂っていた。さあ、江戸の芝居観・・・の気分になって、華やかな劇場でひととき浮世の憂さを忘れよう!

三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ) 河竹黙阿弥 作
白波物(泥棒サンが主人公のお話)では、これと弁天小僧菊之助(青砥稿花錦絵、白波五人男)は、歌舞伎を観たことがない人でも知っているだろう有名な狂言。その中のもっとも良く上演される【大川端庚申塚の場】通し狂言で上演するとそれだけで昼の部終わってしまうが、通し狂言で見ると「ああ、そういうストーリーだったのか」とストンと納得。が切り離しての一幕上演も、それはそれで一つの芝居になっているから、これまたオモシロイ。
 和尚吉三・・梅玉、 お坊吉三・・松緑、お嬢吉・・染五郎他
江戸の大川端、夜鷹のおとせ(米吉)が花道から登場。客の落とした百両をふところに、「もしやその客が身投げでも」と心配している。夜鷹というよりいじらしい娘の感じ、これは他の狂言【文七元結】でもそうだが、親や夫の難儀を救うため自ら承知して苦界に身を沈める娘や妻が多く、それは健気なこととされ、女の美徳でもあった。忠臣蔵のお軽をはじめとして。
そこへしおらしい八百屋お七のような美しい娘が道を尋ね、優しいおとせは道案内に立つ。がそれが運のつき、【女に化けた】お嬢吉三は暗闇を幸い,なにやら光るものをみたとおとせにしがみつきぐっさり一突き。百両を奪い取る。殺され川に蹴落とされたおとせは哀れなのだが、お嬢吉三の見せ場,有名な「月も朧に白魚の篝もかすむ春の宵・・・」黙阿弥の七五調の名せりふを観客は【待ってました!】と大向こうから掛け声、リンと張り上げた役者の名調子に観客はやんやの拍手をおくる。幕末に掛けての江戸の爛熟期から退廃的な世相を受けて、理屈抜きにスカッとするこのせりふ、優しい声音の淑やかなのお嬢さんから,がらりと声の調子もしぐさも変わるあたり、観ていて聴いていて、理屈抜きに気持ちのよいものだ。
 殺しを見ていたお坊吉三、百両を巡って争いに、そこへ登場する和尚吉三、同じ名を持つ三人吉三、ご兄弟の固めの血杯(冷静に考えると気持ちよくないのですが)三人揃っての見得でぱっと舞台は明るい照明に。
何度も観た狂言だが、演じる役者さんが変わるとまた面白いというのが歌舞伎。団十郎・三津五郎・時蔵さん、あるいは玉三郎のお嬢吉三、あるいは勘三郎・福助・橋之助の三人トリオ、違うのよね、かもし出す雰囲気が。それがまた興味深くて。

染五郎のお嬢は、女姿の時は”男が化けた”そんな雰囲気を出している。が見る側としては、やはりあくまできれいな娘としてのたおやかさ・あでやかさが欲しいと思う。それがあると男の地を出したときの切り替えがもっとくっきりと鮮やかになるのだが。染五郎はやはり二枚目美形だけに立役に徹した方がいいように思えた。
松緑は口跡が良くなったと思った。以前はラ行が気になっていたが、今回はすんなりせりふが。ただ二人の渡り合うせりふ、もう少し間が短くてもいいのではないかなあ。黙阿弥のせりふはうたう様に心地よいのだが、役者さんがそれを意識しすぎて酔っちゃうと間延びして聞こえるように思う。梅玉が登場してピリッとしまった感じになった。さすが!

太刀盗人   岡村柿紅 作
 狂言の太刀奪(たちばい)を題材として大正6年に作られた松羽目物。
松羽目物・・・能や狂言を題材としている。舞台背景に能舞台と同じく松の羽目板が描かれている。
 すっぱ(スリのこと)の九郎兵衛・・三代目又五郎、田舎者万
兵衛 ・・三津五郎 目代・・歌六、従者・・松江
都へ訴訟のためやって来た田舎者万兵衛 、都の賑わいにきょろきょろしながらみやげ物を探しているところへスリの
九郎兵衛 が、万兵衛の履いている黄金作りの太刀に目をつけ隙を見て奪おうとする。が盗んだつもりが盗まれたことに気づき、「俺のだ」と主張。そこへ通りかかった目代が二人のうちいずれが正しい太刀の持ち主か吟味をはじめ、太刀の由来や出所を尋ねるが、万兵衛の答えを盗み聞いて同じように答えるすり、太刀の地肌焼きの模様を舞いながら答えるのにも上手くごまかして連れ舞いする。が、盗み聞きされているようだと耳打ちで答え始めたのでとうとう答えることが出来なくなるスリの九郎兵衛、捉えて衣服を脱がせるとその下には盗み取った金袋などを隠していることが露見、慌てふためいて逃げ出すスリを追いかける三人、やるまいぞ、やるまいぞ・・・でめでたし、めでたし。
面白かった、三津五郎の達者な余裕たっぷりの役者ぶりは見事、又五郎のスッパがこれまた上手い、踊りに切れのある役者さんだし、万兵衛のしぐさや言葉をそっくり真似る(ちょっとはずして)あたり観客席笑いが起こる。歌六の目代もおっとりとして貫禄、従者松江もなかなか・・・で楽しませてもらった。

極付 幡随長兵衛  河竹黙阿弥 作 (通称 湯殿の長兵衛)
長兵衛は九州唐津藩士の息子、武士の出。のちに口入家業を営み侠客となった実際の人物で、旗本水野十郎左衛門に殺されたという実話に基づいた作品といわれる。
 幡随長兵衛・・吉右衛門、女房 お時・・魁春、唐犬権兵衛・・梅玉、旗本水野十郎左衛門・・仁左衛門、他東蔵・松緑・染五郎・歌昇・亀寿などなど、古くからおなじみの歌江サンの顔もあった。確か昭和一桁生まれだと思う。この世代の方たち、中村屋一門の小山三はじめ元気でいて欲しいと思う、老練な脇役さんたちの存在は大きいのだから。桂三、京紫、辰緑・・・沢山の見知った役者さんたち、嬉しいものだ。

吉右衛門の十八番、
長兵衛 !私にとっては”待ってました!”狂言。吉右衛門さんのあの口跡、台詞回しのよさ!
江戸の町で事あるごとに対立していた、旗本白柄組と町奴、芝居小屋でのささいな口論から、長兵衛は町奴の意地と誇りを掛けて、殺されるのを覚悟で早桶まで子分に用意させ、水野十郎左衛門からの招きに応じる。もと武士の出である長兵衛の剣の技を確かめた水野は、風呂場で十郎左衛門の槍に貫かれ、非業の最期を遂げる。

序幕の劇中劇,江戸村山座でのお芝居上演中の揉め事を収める
長兵衛 の見事さ、貫禄。客席を当時の芝居小屋に見立てて、客席から登場する
長兵衛、客席が驚きの声でざわめいた。嬉しいご馳走!である。
この序幕の
吉右衛門 の台詞回しのよさ、とろりと緩急自在でせりふになんともいえない色がある。緩急自在、もう、鳥肌ものだと私は思う。何度聞いてもいい!ただ、少し膝が悪いのでは?そんな気がしたが。歌舞伎役者さんは先代松緑さんもそうだったが、激しい動きや忍耐の要る姿勢の中で、膝に支障が来ることが多いような気がする。もし・・・そうだったら、どうぞ大事にしてください。酷使しすぎないように!

二幕目の長兵衛 内の場・・・では、魁春の女房が抑えた演技の中でも、しっかり者で亭主を思いやる心根と死を覚悟で出かける女房の切なさをやんわりと演じていた。最近の子役はみな上手で、いつも驚かされる。「長松(子供)にはこの家業を継がせず、棒振りでもいいから堅気な仕事を!」と言い残し、この世の未練をを断ち切って水野の屋敷に向かう
長兵衛 、背中の大きい男の中の男をたっぷり余裕を持って演じていた。

三幕水野邸、そして風呂場。水野や家来達の挑発に乗らず,耐える長兵衛 だが・・・・。自分が殺されなければ,この場は収まらないと知っている腹のうちを見せずに応対するその姿に言葉に、
長兵衛 の人物の大きさを表す。死なせたくないと思ってしまう幕切れ。仁左衛門は敵役水野を冷ややかにそれでいて,相手の技量を見極めている憎まれ役を,旗本らしい品格を見せながら演じる
播磨屋一門の大きな支え、仁左衛門などの襲名バックアップもあって、三代目又五郎も四代目歌昇も、前名の頃より一段と存在感が大きくなったと思った。


また横浜の娘宅に留守番役で滞在。娘夫婦が出かける前に、平成中村座最終公演の昼の部を観た。二枚続きのチケットが手に入らず、席は離れていたが、久しぶりの娘との観劇は嬉しかった。
以前は娘一家と歌舞伎観劇したりも出来たけど、今は娘のパートナーさんも仕事多忙、孫達も部活などでとても一緒に歌舞伎をみる時間なんて無理なこととなった。夜の部の「髪結新三」好きなので見たかったが、娘が夜の外出はままならず昼の部にした。新三は勘三郎襲名披露三ヶ月、毎月通った時にしっかり観たからいいかな。五ヶ月間続いた平成中村座浅草公演も、いよいよ最終月である。
昼の部本朝二十四孝(十種香)
 八重垣姫(七之助)・腰元濡衣(勘九郎)・花作り蓑作、実は武田勝頼(扇雀)
 原 小文治(亀蔵)・長尾謙信(弥十郎)他。


八重垣姫は赤姫のうちでも難しい役とされるが、七之助は一途に恋する可愛い可憐な世間知らずのお姫様を、可憐に演じた。演じることの上手い下手を通り越して、とっても初々しいお姫様!回りから「きれいねえ」という声が聞こえた。

実際には会った事のない許婚、絵姿を眺めながら想いを募らせてきた姫は、その勝頼がすでに亡くなったと知って、絵姿に「十種香」を炊いて、追善供養の日々。
その哀れにも切ない断ち切れない想いは、歌舞伎の型となって、表現される。
六世歌右衛門はじめ名女形といわれた役者達が、演じてきたその型を丁寧になぞって演じていく。もう少し自分のものになれば、素敵な八重垣姫誕生となるだろう。死んだと思った勝頼そっくりの花作り蓑作(実は本物の勝頼)に、例え偽者であったとしても構わない、これほど絵姿に似た人ならと・・・恥ずかしさを超えて濡れ衣に訴えるあたりは、必死の想いが自然に現れていた。
いいなと思ったのは、扇雀の勝頼。品も行儀もよく、顔立ちがほっそり感じられたから不思議。
新・勘九郎の腰元濡れ衣は、控えめ気味過ぎかな。訳知りの大人の女の雰囲気がもう少し出るとよかったのだが。

弥生の花浅草祭(四変化)   勘九郎&染五郎
 江戸三大祭の一つ【三社祭】の舞台に飾られた人形を題材にした変化舞踊。
江戸時代の中村座のあった、中村屋の本拠地浅草にちなんでの演し物。
ご祝儀ものともいえよう。元気盛りの勘九郎と染五郎が、神宮皇后や武内宿禰、
悪玉・善玉の面をつけての漁師となっての【三社祭】、最後は舞台の雰囲気がらりと変わって【石橋(しゃっきょう)】若い二人は力強く元気に獅子となり、勇ましい毛振りを見せてくれました。いやあ、もう、溌剌と元気なこと!

神明恵和合取組(かみのめぐみ、わごうのとりくみ) 竹柴其水 作
   通称【め組の喧嘩】 明治23年東京新富座で初演。
 江戸時代に実際に芝神明の境内で起こった、鳶と力士の喧嘩がテーマ。

江戸時代は、鳶も庶民の花形なら、力士も今のスターみたいなもの。
この両者がささいなことから喧嘩となり、め組の頭辰五郎が留めに入ったものの、結局収まらず、意地と面子が派手な立ち回りの喧嘩場へと物語りは進みます。辰五郎と義理を重んじる気丈な女房、可愛い子供、鳶の手下達が絡み、命を張っての喧嘩に出て行く別れの水盃。すがる子供の手を振り切って・・・最近の子役は驚くほど上手です。「達者な役者でも子役には勝てねえ」といいますが、ほんと、うっかりすると食われちゃうくらいです。
粋でいなせな辰五郎を勘三郎さんが、江戸っ子のせりふも心地よく聞かせて演じたのですが、初役と知って驚きました。勘三郎さんだと何度も演じているだろうと思える役柄だったので。なんだか、とても得した気分です!
前に菊五郎さんの辰五郎も見ましたが、こちらも歯切れの良い江戸弁が気持ちよかったですねぇ。

祭り気分も取り入れて、楽しい最終月昼の部でした。本朝二十四孝は、新・勘九郎と七之助のチャレンジ舞台と思えました。特に勘九郎くんは、こんなに張り切って大丈夫か知らんと思えるほど、精魂こめて身体いっぱいで演じています。若いとはいえ、無理はしないで下さいね。これから・・・役者として大きく花開くときなのですから。
弥十郎さんや亀蔵さんなど中村屋一門として活躍中の役者さん達も、新・勘九郎を支えて、見事な結束を感じさせます。

闘病中だった勘三郎さんが、元気に復帰し喜んでいたのに・・・一昨日、食道癌!との発表のニュースが飛び交い、驚きました。今までずっと走りっぱなしの役者人生でしたから。心身の疲れに病魔が忍び込んだのでしょう。まだ57歳!役者は60歳からが華だよ・・・と見巧者な人はいいます。幸い早期発見とのこと、しっかり治療して、しっかり元気になられてからの復帰の舞台を、一贔屓として心から願い,祈っています。




歌舞伎観たまま・想うまま(新)
横浜の娘宅で孫達と留守居役で過ごした1週間が終わって、【平成中村座勘九郎襲名披露公演】へ。浅草での中村座公演を見るのは三回目。中村座発祥の地で、新・勘九郎は生き生きと張り切って、歌舞伎界の星として眩しく輝いていた。


日本公演だけでなくNYなどでも活躍する【江戸時代の中村座】を再現した「持ち運び?」の芝居小屋は、やはり風情が違う。いいなぁといつも思う。もっとも昔ながらの芝居小屋といえば、四国金毘羅の【金丸座】あの小屋は、最高だと思う。まだ足を運んだことのない人には「ぜひ!一度は!」と勧めている。素敵ですよ。


三月公演・夜の部


<傾城 反魂香>通称”吃又” (土佐将監閑居の場)   

              宝永5年(1708)大阪近松座初演 近松門左衛門 作

 浮世又平(のちに土佐又平光起)・・・仁左衛門、土佐将監光信 ・・・亀蔵、 

 修理之助・・・新悟、狩野雅楽之助・・・猿弥、又平女房おとく・・・勘三郎


どもりで上手く自分の気持ちを表現できない口下手な絵師又平と、その夫をいたわり代弁を勤めるほどに、お喋りな女房おとく。師に土佐の苗字を許されず、将来を絶望した又平が死を覚悟し、手水鉢を石塔に見立て、と最期の絵を描く。それが手水鉢の裏側へ通り抜けるという奇跡が起こる。土佐の苗字を許された夫婦の喜び・・・夫婦の組み合わせの面白さ、情愛を描いたお芝居。


口跡のよい今も凛々しい二枚目の仁左衛門サンがどもりの又平を演じ、仁左衛門さんと私生活でも仲のよい勘三郎サンが、人一倍口達者な気の善い女房おとくを演じて、客席を賑わせた。


私の席は【鳥屋口】のすぐ傍だったので、花道を引っ込んでくる勘三郎サンの顔を直視(笑)することができた。病気回復後初めて観る勘三郎サンである。思い過ごしかもしれないけど、ちょっと陰りがあるような気がした。が身びいきゆえの心配しすぎかもしれない。無理しないで身体を大事にしながら,徐々にいつもながらの勘三郎サンに戻って欲しいと思った。


<口 上> 六代目中村勘九郎襲名披露


仁左衛門・海老蔵・我當・進之介・勘三郎・勘九郎・七之助・扇雀・亀蔵・笹野高史


「中村屋」の色”たまご色”の裃で勘三郎が、勘九郎が、七之助が!

やっぱり口上は一つの芝居、幕物と一緒である。華やかで厳粛で。海老蔵サンの「勘九郎サンは真面目・真面目とばかり言われているので、そうではないエピソードを披露します」とやんちゃぶりを話し出して大受け。笹野高史さんの口上も楽しかった。気合とユーモアの混じった勘三郎さんの挨拶に、心からの拍手を送った。

【中村屋ばんざい!】ですね。


<曽我 綉 侠 御所染(そが もよう たてしのごしょぞめ)>

 通称 御所五郎蔵


元治元年(1864)江戸市村座で初演。柳亭種彦の原作を黙阿弥が芝居にしたもの


【序幕・二幕目】男伊達・侠客 御所五郎蔵が仮花道から、敵役となる星影土右衛門が本花道から登場して、双方七五調の黙阿弥の台詞を【渡り台詞】で応酬する場は、桜満開の五條仲ノ町の華やかさを舞台にして、歌舞伎ならではの美意識が観客の目を奪う場面だ。星影は五郎蔵の妻傾城皐月に横恋慕、二人の恋の鞘当(さやあて)は甲屋の亭主 与五郎によって一応この場は納まるのだが。


【二幕目】元侍だった五郎蔵は旧主の難儀を救うため、200両のお金がどうしても必要で、それを皐月は【五郎蔵に去り状を書くなら、金を工面してやる」との星影の言葉に、心ならずも去り状を書く。

 そういう事情を知らない五郎蔵は皐月の心変わりに立腹。満座の中で恥を書かされたこともあって、皐月の本心を知らぬままに土右衛門と皐月を待ち伏せ、切りかかる。が、実は癪をおこした皐月の身代わりに、星影をなだめ花形屋まで同行していた、皐月の内掛けを借りた朋輩の逢州だった。


この本ではこの序幕から二幕目までが独立して上演される。筋立てはともかく、粋な侠客五郎蔵と敵役星影との対立を美的な言葉や衣装で見せる、そのあたりを楽しめばいい世話物といえよう。


新・勘九郎の五郎蔵、若くて生き生きしていて、なかなか良かった。所作が大きく口跡もよく、侠客らしい華やかさもあり、海老蔵の星影といいコンビだった。


殺される同輩思いの優しい傾城逢州は七之助さん、「いやあ、ほんとに綺麗になりましたねえ」もともと綺麗だったけど、大人になってきたというか、艶がでて、今後が楽しみだ。



前に仁左衛門さんの五郎蔵見たときも、涼やかで華があって、「ほんと!佳い男」

惚れ惚れでした。今度の勘九郎さんも歯切れがよくて生き生きしててよかった~けど、仁左衛門さんの五郎蔵に比べると、花道に出た瞬間のあの粋な二枚目美しい男・・・のイメージはまだまだこれからでしょうね。松島屋さんが良過ぎるのでしょう。


しかし・・・なんだって、五郎蔵さんは背中に尺八さしているんだろうか?観るたびに疑問に感じるんですが(サマになって格好いいのだけど)、正しい答えがわからぬままです。あれこれ推量はするけど。ここにはない皐月の胡弓に合わせての尺八ってことなのかな?とも思うけど、今ひとつしっくり来ないままなんです。

 理屈ぬきに歌舞伎の色使いの鮮やかさ、黙阿弥の七五調の台詞の面白さ、

楽しめました。殺しが入り、どろどろした愛憎もあるのですが、やっぱり観終わって目に残るのは、五郎蔵の気持ちのよい美しさ、舞台の華やかさでした。


これ以上の二枚目は出てこない!といわれた【橘屋(15代目羽左衛門)】70代過ぎても瑞々しい二枚目を演じた天下の美男、橘屋の五郎蔵は家に残っているブロマイドみても、十分想像できます。羽左衛門・仁左衛門、水も滴る佳い男です。

でも、勘九郎クンはこの二人程美男とはいいませんが、これまた骨もある生き生きしたたくましさも感じさせる、性根の座った清清しさがあって、これまたほんとに【佳い男】として、大きく大人の仲間入りって感じを受けましたよ。見事な襲名ぶりです。



今夜はご祝儀兼ねて【六代目!】と掛け声もかかったけど、六代目といえば

やっぱり踊りの神様、役者の神様【六代目尾上菊五郎】勘九郎クンの曾祖父にあたり、この五郎蔵もよく演じたものだ(と私は母や祖母から聞いただけで、六代目の舞台は観たらしいのだが、余りに小さい頃で全く記憶にない)


< 元禄花見踊り >コレはもう、中村座だからできる若手の顔見世舞踊のようなもの。


 児太郎(福助さんの長男、18歳)・国生(橋之助さんの長男、今春高校二年生)


 宣夫(橋之助さんの三男 10歳)・虎之介(扇雀の長男 14歳)


 鶴松(勘三郎サンの部屋子、17歳、名子役だったが10代に入っても

     安定したよい舞台を見せている、私のご贔屓の鶴松君である)


昼の部には仁左衛門さんの孫(孝太郎さんの息子) 千之助(12歳)も出演。


今若手といわれる梅枝くん(時蔵の長男)あたりのそのまた次の世代が、もうこんなに大きくなったのかとなんだか感慨無量だった。踊りの上手下手は二の次、ご愛嬌でもあり、本舞台にしっかり慣れるための一幕。本人達も嬉しかっただろうと思う。

歌舞伎の未来を背負っていく可愛い双葉の役者サン達、ヨロシクね!と声援を

送った次第)


後見に亡き芝翫サンの踊りの後見にいつもついていた中村忍のぶサンが

芝翫サンの孫のための後見を勤めていて、ふと涙ぐみそうになった。


観客席と舞台がとても近く感じられる【中村座】

江戸の庶民になったような気持ちで、時代を超えて芝居を楽しめる【中村座】

気軽に手ごろに歌舞伎という、実は大衆演劇を身近に感じられる【中村座】

  これからも中村屋一門の役者サン達を愛するように【中村座】も

愛され続けていくことでしょう。楽しいお江戸は浅草での芝居見物でした。


生憎の雨で恒例となった、舞台の後ろ側一面が開いて、外が見える、外に走り出るといった趣向がなかったこと。前に見たときは、外を歩いている観光客なども大喜びの一場面があったのだが。


勘太郎クン、いや新・勘九郎サン、襲名おめでとう!


昨年三月勘三郎サンの急病で【夏祭り】の佐七を初の代役として大奮闘して、芝居に掛ける情熱をしっかり見せてくれた勘太郎クンは、楽屋で会った素顔も謙虚で行儀よく、とても爽やかな印象でした。芝居にかける熱意はお父さんに負けないものが、感じられました。

 ほんとに・・・おめでとう!














歌舞伎観たまま・想うまま(新)
久しぶりに上京、【平成中村座勘九郎襲名披露公演】を見たので、観劇記を書こうと思ってこのブログを開いたら・・・まあ、2011年秋の【海老蔵復活公演】も【師走文楽公演】も今年二月の【亀治郎&猿之助一門公演】も

何も書いていないことに気がついて、ちょっと驚いてしまった。

舞台を見た芝居については、即自分なりの感想を記して【私自身への記録】として残してきたのだが・・・歌舞伎座は建て直し中、私自身は術後、加えて急なアメリカ行き、年末には私事としての心配なこともあったりして、気分的に落ち着かず「お芝居から気分が遠のいた」そんな時期だったのだろう。


今日はしとしとと煙るような小雨、気温も上がり暖かい。咲き遅れていた我が家の白梅・紅梅も一気に開き始めた。3月も半ば、いよいよ春はそこまで忍び寄ってきた。気持ちを切り替えて、樹木の優しい芽生えに命のたくましさを、明るい明日を信じよう!