昭和という時代とわたし・・・・・・・・・母の事
母は歯ブラシ工場で働いていた父と(私の母方の祖父)と
子ども思いで穏やかで優しい母(母方の祖母)の両親のもと
三男三女六人兄妹の二番目長女として生を受けました。
長兄は戦争に取られ後に戦死をしています。
すぐ下の妹は戦時中病に倒れなくなっています。
母は製糸工場で働いていたそうで、
母も、下の妹たちも写真で見るととても美人で、
当時ご近所では美人三姉妹と騒がれていたようです。
一番下の妹はミスに選ばれています。
そんな母に何故父と結婚したのかと、訊ねたことがありました。
当時母には思い人がいました。
その青年に召集令状が来て、
青年は母に会いに来たそうです。
思い合っている二人でしたが、
青年は母に言ったそうです。
「自分はこれから戦争に行く、いつ帰れるか、
無事に帰れるかもわからない。
どうか僕のことは忘れて、
良い結婚をして幸せになって下さい」
そう言って、彼は後ろも振り向かず去っていったそうです。
母は失意のもと三日三晩泣き明かし、
決心したと言います。
自分は既に結構適齢期になっていること、
下には兄妹もいること、
泣き明かしてなんかいられない。
今後一番先に来た縁談に、素直に従おう
そう決心したそうです。
憂いを秘めた母の表情が当時を物語っているようです。
そして最初に縁談を持ってきた相手、
そう、それが私の父親です。
その縁談は母の従兄弟から持ち込まれました。
不幸な生い立ちの父と、失意の母
そんな両親に私たち兄弟は、
慈しみ大切に育てられました。
戦争は何も生みません。
今ウクライナがそうであるように、
人は悲しみ、苦しみ失意のどん底にいます。
この地球上から戦争が無くなるように切に願います。
ブロ友さんから父の織った西陣織を見たいというコメントがありました。
この袋帯は私の成人式用に、父が織ってくれたものです。
着物はもう着なくなったので、
ライフワークの布ぞうりに使用する大島、紬系統以外はほとんど人に差し上げました。
唯一記念に残してある父が織った綴れの袋帯です。
後々はタペストリーなどにリメイクするつもりです。