ピューク

ピューク

プロレスと音楽が好物。

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屈辱を飲み込んで

胃の中で酸と混じり合い

悪意の匂いを吐き出す

脳髄は淀み 眼の色はくすみ

耳は雑音まじりの音しか聴こえず

言葉はナイフかハンマーになる


今日も大事にしていたペンを無くした

それを使ってどんなことを書こうかと思っていたのに


またも話が違っていた

都合よく書き換えられた記憶は

悪意の視線で身を切りつける

手は荒れただれ 呼吸は浅く早く

足は走ることを止められず

水を飲むのも煩わしい


今日も大事にしていた心を亡くした

亡くして悲しみや怒りも忘れたい

代償に喜びさえも消えるのだろう

それでもかまわないと思うほどに

太陽の下で笑っているはずの

心を亡くしていた



わたしがしていることがあなたがしていることよりはるかにかちがないものならどうぞつめたいめでさげすんてくださいたからかにわらってくださいだけどわたしのしようとすることやわたしがしんじてしていることをじゃましないでぐださいどうかおねがいしますどうかおねがいしますでないとわたしはあなたをどうにかしてしまいそうです



信念は頭の中で捻じ曲がり

矛盾が腹を殴り
言葉が耳を引きちぎる
他人が理解することは無い
分かって欲しいとも思わない
ただ降りかかるどうでもいいことを
さっさと済ませてしまいたい

掌の上に残った黒インクの線が
無くしたペンと心があったことを
証明している

今日もペンを無くした
今日も心を亡くした

#散文詩 #詩

少し音楽をかじっているので、そういう話に敏感な性格です。
昔からラブソングを歌うのが苦手だ。
作るのも苦手だ。それは今も同じこと。
出来たとしても、それは悲恋や別れの歌のみ。
「愛してる」「好きだ」
という直接的な言葉は一切使わない。

何故だろうとここ最近考えていた。
きっかけは時々呑みに行く元バンドメンバー夫婦が切り盛りしているお店で、そこにはギターが二本置いてあり、時々弾かせてもらっている。
その際に何か歌ってほしいと頼まれると、少し嬉しい反面、何を歌ったらいいかわからなくなってしまうことだった。
性格上、詞が明るいものにはなかなか手が出ず、内面を掘り下げるような所謂暗い歌を好んで弾いたり歌ったりしていたので、ワイワイや穏やかな雰囲気の中でそういった歌は相応しくないと思ってしまう。
その中でもこれならいけるのでは、と苦肉の策で選曲して歌う。(その中に自作もあったりする)

ここからは偏見になる話だが、ラブソングを明るく楽しく歌うことは、作った本人がとてつもなく幸福に満ちているか、若しくは作者の意向を反映させて歌うミラーのような存在として歌っているかだ。
つまりはその明るい「素養」がなければ歌ってはいけないとまで思っている。

過去を振り返ると自分の恋愛観で、スクールカーストの悪しき概念がとても大きく影響していて、自分はもちろん最下層だった。
隣の席のいつも笑顔が素敵なあの娘がとても眩しくて、誰とでも親しくしていて、逆に自分の存在がどんどん黒くなっていく感覚を覚えている。

大学に進学し、それなりに女の子と話が出来るようになったりして
「あの娘、お前に気があったらしいぜ、勿体無いなあ、なんで気づいてあげなかったんだよ?」
と青天の霹靂のように友人から言われたことがある。
自分としては「はぁ?」だった。
なんで言ってくれなかったのだろう、と。
いや、もし自分が気づいてあげられたなら…
とも思ったりもするが、最終的にこういう思考に陥る。
「まさか、そんなはずない、俺みたいなキモい奴に、あの娘が…、絶対ないないない!!!」

これが自分の基本思考回路で、極めて後ろ向きだ。
自分から、あの娘いいなあ、と思っても
「無理無理!あんな可愛い子、きっと彼氏いるし、たとえいなかったとしても誰か好きな人がいるよ!」
と諦めて自己完結していた。
そんな大学生活を送っていた。

話を少し戻すと、スクールカーストに影響されたもの、つまりはその上層部に属するものは、明るいラブソングをなんの躊躇もなく歌うことが出来る。と思考が固まっているのである。

つまりは自分はその歌を歌う素養と資格がないということ。

例外としてカラオケなどでリクエストされてなんとなく歌うことはあるが、全く面白くない。

となると、自分が選ぶ歌は内面を掘り下げる歌を選ぶ。
そしてそういった曲しか作れない。

そんな時にだ。
今更ながらこの曲を聴いた。
気づいた。
自分みたいな性格がねじ曲がった人間でも、スクールカーストで最下層にいた自分が、隣の席の素敵な娘に恋をしてもいいと、
俺みたいなキモい奴、無理だよと自己完結していた人間が好きになってもいいと、
歌えなくなってしまったラブソングを、「抱きしめたい」「愛しい人」という言葉を歌ってもいいのではと思った。

車の中でこの曲を爆音で鳴らし、自分も歌う。
声が涙交じりになる。

結論は出ていない。
多分、これからもラブソングは歌うことはないだろう。
前よりはラブソングに対して抵抗感が、僅かだが薄くなった気がする。



だけど、今度お店に行ったらラブソングにチャレンジしてみようか。

ありがとう、峯田くん。





就寝の際に明かりを消して眠りにつこうとするのだが、この2〜3年前からその時に頭の中に言葉が溢れ出て洪水のような状態になることが時々起こる。

その事象が発生したばかりのときはほぼ毎晩の様に起こっていた。
その内容は理論整然としたものから支離滅裂なものまで様々。
その言葉をどこに収めていたかといえば、手軽にTwitterに書き込んでいた。
話し言葉のように表現しているものもあれば、散文詩のように書き込んでいるのもある。

翌日の朝、仕事に出かける前にTwitterを何気無くチェックすると、こんなの描くんじゃなかったと思ってしまうものが結構ある。酷い時には書いた記憶さえないものもある。
半分眠りに入っている脳の状態で常識や理屈では通らない情景や心理。
そんな様々な書き込みをしているなかにも確信めいたものことを書いている時もあるので、これもまた我ながら面白いものを書いたものだと思うときもある。

ただ書く内容全てに根幹が必ず一致している。
自分は今哀しい
ということだ。

どんなメタファーやペルソナを使っても、それは簡単に暴かれてしまうようなことで、今の自分はがどれだけメランコリックな気分でいるのかがわかる。

因みに昨晩半分眠った状態で書いたものを下にペーストしておく。
誤字脱字もそのままに。
Twitterではこの内容は削除済みである。


何か一つのことに夢中になること

それ自体はとても素晴らしい

しかしその姿を側からみたときに

「その人はどのようなことを突き詰めているのか」

が問題になり

それが自身の生活に必要のないものと見なしたら

その人は所謂「キモオタ」と言われるのだろう


仕事に没頭している人➡︎金を生む

その金でジムやエステに通う人➡︎美をまといチヤホヤ

常に金を持つものの結果他人が得たいと思うものを得る


一方

ドルオタ➡︎キモッとか

プオタ➡︎なんか怖いんですけど

音楽マニア➡︎なんか病んでそう

生活に全く役に立つものでもない

自己満足の世界


自身は一応

音楽好き

プロレス好き

に当たるのだが

ハッキリ言うと

人間生きて行く上で

この二つが必ず要るものかと問われると

必要無いのですよ


だけど自分は宗教家ではないが

「人間はパンだけでは行きてはいけない」という言葉が示すように

身体を作る物質的要素を摂取するだけなら獣と同じか若しくは「ただ死んでいない人間」だ。

その先の言葉による交友、空いてしまったいた心の穴を補完する物事がどれほどの人を救ったのか。


確かに仕事に夢中になっている人はスマートで身のこなしもよく、伴侶子持ちは当たり前。きっとよい家にも住んでいるだろう。残業とか言っているがそれも含めて、所謂ハイソな生活に守るためとは、誰も非難したり気持ち悪がられたりしないだろう。


金を生み出すどころか金を支払うことで満たされる後者たちは、正直言って社会に適応できていない雰囲気がなんともはや出ている。

稼いだ金をその趣味につぎ込む、そしてその見返りを求める。

そこで事が成立するので、難しく考える必要がない。

ぱっと見、妻帯者はいないだろな、かまほどんどだ。


自分はそうならないように、身だしなみなどを不快感を与えないぐらいにはキープしているつもりだが

自分は他人の許せない線引きを意図せず簡単に侵してしまう。

これが一番の苦痛。

これが小学生から現在に至るまで続いいている。

正直あやこの先は書かない方がいい。


そんな他人との距離感を掴めず、不快にさせる発言を意図ではなくとも話してしまい、

独りだったこんな自分を

「友達」

にしてくれた

その友達よ、本当にありがとう!!



以上。

文体は比喩も何もないただの文字の羅列だが。

内容としてはある意味一方的でかつ攻撃的なものになっている。

あまりにフェアではない内容と思い、Twitterから削除した。

削除したことをツイートすると

もう読みました

とのリプが来て、自分はどうか記憶から消して下さいと無茶なお願いをしたのだが、

共感しました

との返事が来た。

驚いた。

このような独りよがりな言葉の羅列、或いは暴力にもなりかねないものにシンパシーを感じることがあるのかと。


哀しみの共有というのだろうか、言葉を発して何かに訴えたい強い思いと、どこか少しでもその言葉に自分を当てはめることができる読み手がリレーションすると、そこに悲しみのコミュニティという助け合いのようなものが生まれているのかもしれない。


真夜中の衝動はこれからも時々に起こることだと思う。

特定の人物を傷付けることだけは避けたいが、何せ半分眠った状態で書く内容だ。何処かで知らず知らずのうちに誰かを傷付けることがあるかもしれない。

本当は辞めてしまいたい。

だけど書かずに入られない。

言葉がドンドンと溢れてくる。

誰か受け皿を!いや、バケツを用意して欲しい!

しかも書くからには読んでもらいたい、という完全なるエゴも発生する。

メモ帳に下書きして残すこともしない。

(上記のツイート内容は削除前にコピーしたもの)


何かに訴えることこそが自分の心の毒素を放出する数少ない方法だということを、改めて感じた。


さあ今夜はどんな言葉が溢れてくるのだろうか、それとも何も起こらない夜になるのか。


ではまた。