2013年6月25日


この日はお母ちゃんと話すことができた最後の日でした。


朝、病室に顔を出したら、ご飯を食べられない様子のお母ちゃん。

心配だったけど、昼休みはどうしても済ませなければならない用事があって病室にいくことができず。


仕事が終わって携帯を見たら、コアラ姉ちゃんからメール。


お母ちゃんが調子が悪くなって個室に移ったということ。

夕方、目が回って意識がなくなったってこと。

検査の結果を待って先生から話しがあるとのこと。

今は意識が戻ってるよってこと。

が書いてありました。


なにがあったんだろ・・・

とにかく急いでいかなくちゃ。


移動した個室に行ったら、

顔が真っ青になったお母ちゃんが辛そうに横になっていました。


看護師さんからの話によると、

昼間にお風呂に入れてあげた時に気分が悪くなってしまって、

すぐに湯船から出したそう。

その後もずっと調子が悪くて、夕方に意識を失ってしまったそう。

脳のほうに原因があるかもしれないということでCT検査をしたそう。


・・・????????


なんで、調子が悪い時にお風呂なんていれたん??

もともとお母ちゃんは心臓が弱いので、

うちにいるときからめったに湯船にはつかっていませんでした。

本人がつかりたいときは必ず私がいるようにしてました。

入院してからも担当の看護師さんがやたらお風呂に入って血行をよくしたほうがいいとか、

足浴だけでもしたほうが良いって言っていたのですが、

心臓のことがあるのでお風呂にはあまり入らないようにしています

って伝えておきました。


なのに、なのに、なんで??

なんで、お風呂に入れられちゃたん??


お母ちゃんがか細い声でいいました。

「なんで、お風呂に入れられたんやか。シャワーで良かったのに。」


お風呂に入ったのはお母ちゃんの希望ではなかったそう。

誰なん!!そんな無責任なことしたの誰なん!!

そもそも担当医はなんでこんな状況のお母ちゃんに入浴の許可を出してたん!!!


「なんでお風呂にいれたんですか?誰がそんなことしたんですか?」

本当は聞きたかったけど、とにかくお母ちゃんを居づらくしたくはない。

多分、その言葉を発してしまったら、私の怒りは自分でコントロールをできなくなりそう。

ただただ、お母ちゃんの調子が良くなって元気になることを信じたい。


担当医は出張で不在とのことで、

若い先生が対応してくれてました。

脳を調べたけれど、特に異常はないとのこと。

意識を失ったのは一時的なもので大丈夫とのこと。


「早く自分の部屋に戻りたい。このベッド硬いんよ。」

個室のベッドは寝返りをしやすいように硬いマットレスだそうで、

お母ちゃんは一刻も早く元の病室に戻りたいようでした。


「今夜はここに居たほうがいいんやって。

元気になったらまた元の部屋に戻れるけ、がんばろう」


「うん・・・」


お母ちゃんの顔の白さは尋常ではなかったのです。


なんで、なんで、お風呂に入れたん・・・


この疑問はお母ちゃんの死後、何ヶ月経っても払拭しきれず、

受け入れるのに相当な苦しみを伴ったのでした。


コアラ姉と塩原&黒羽ドライブ~♪
姉妹二人きりのドライブなんて何年ぶり??
終始テンション上がりっぱなしでした☆


滝のマイナスイオンに癒されたり

緑の山々にパワーもらったり


おしゃれレストランでランチしたり

足湯で自分の激太りを痛感したり



乳搾りをしたり・・・?、

紫陽花撮影会に没頭したり




二人のための演奏会♪「花は咲く」に涙したり



最後には虹に出逢えたり☆


一日中、見渡す限りの緑を見て目が少し良くなったのでは(・∀・)
やっぱり栃木いいとこ☆大好きです♪

幸せいっぱいな一日でした(*´∀`*)

2013年6月24日(月)の続き。


仕事終了後、病室へ。

足からの透析は大変だったようで、

お母ちゃんはぐったり。

夕飯が来ても食べる元気もない様子でした。


そこに、事情も何も知らずにお母ちゃんを叱ったあの看護助手がきました。

何度も言うけど、あまり人のことを悪く言いたくないし

このブログにそういうことを残したくない。

けど、あえて書きます。

医療従事者に限らず、どんな仕事に就いている人であっても、

自分の価値観を押し付けたり、

自分の感情をぶつけたり、

慣れあいで仕事をすることがどれほど罪深いことか、知ってほしい。


自分が相手に対して発した言葉が、

どれほど人を傷つけるのか、

自分が行った行動が、

どれほど人を絶望に陥れるのか。

その傷を負った人が自分でその傷を癒して

立ち直るのにどれほどの時間がかかるのか。

その想像力を働かせることができな人は、

決して良い仕事ができているとは言えないと思います。

仕事に限らず全ての人間関係において言えることですが。


自分の感情はまず置いておいて、

相手がわかるように伝える。

ただ、それだけでいいのに。

それができていない人があまりにも多すぎる。



全く手をつけられていない夕食を見て看護助手は強い口調で言いました。

「これどうすんの!?下げていいの!?

透析終わるの遅くてパンを食べるのが遅かったからお腹いっぱいなんでしょ!」

どうやら、透析が終わるのが遅くなったために昼食は下げられていて、

その代わりにパンが出ていたみたい。



私「お母ちゃん、さっきパン食べたん?」

母「食べてないよ。」

私「パン食べてないそうなんですけど・・・」

看「食べたの忘れてんだよ。ここに記録あるからね。」



(カチン・・・)



私「後で食べるやろ?取っていてもらおうか?」

母「うん。取っといてもらう。」

私「このまま置いておいてください。」

看「あんまり長くは置いとけないからね!」

母「・・・じゃあ、いいです・・・」



あんまり強い口調で言うもんだから、

お母ちゃん諦めちゃったんですよね。



私「後で食べさせたいので置いておいてください」

看「ふりかけ、私に見つかって怒られちゃったのよね~♪ダメよ~規則は守らなくちゃ。」



(崩壊・・・)



ふざけんな!!

食べられないほど体がキツいのに、

それでも生きるために必死で食べようとしている人に

よくそんなことが言えるね!!!!!!



って怒鳴ってやりたかった。

でも、私がそうすることによってお母ちゃんがここに居づらくなったら可哀想だから、

ただただ、お母ちゃんのためだけに、我慢しました。

でも体が震えるほどの怒りを覚えました。

悔しくて、悔しくて涙が止まりませんでした。



看護助手が他の患者さんのところに行ってる間泣きながらお母ちゃんにいいました。

私「お母ちゃん、ごめんね。私がふりかけ持ってきたから、怒られちゃって。ごめんね。」

母「いいんよ。ゆうかはお母さんがお粥が食べられるようにって持ってきてくれたんやけ。

  わかっちょるけ、いいんよ。」

私「でも、なんであんな言い方されないけんのかね。悔しくてたまらんよ・・・。」

母「そうやね・・・しょうがないね・・・」



私がボロボロに泣いてることを察していただろう看護助手。

その彼女が何を思ったわからないけど・・・



結局、そのまま食事は下げてもらいました。

次の日は朝からほとんどまともな食事が取れなかったお母ちゃん。

つまりはこの時の食事がお母ちゃんが食べられた最後に食事になるはずでした。

その機会をいとも簡単に奪っただけじゃなく、

母と私の希望を奪っただけじゃなく、

大きな大きな傷を残した一件。


お母ちゃんが亡くなってからも、そのことが許せなくて

随分長いこと苦しみました。

お母ちゃんは人を許せる人だったから、

お母ちゃんのためにも許してあげよう。

そう思って、怒りの感情が湧いてくる度に

自分に言い聞かせていました。

でも、これを書きながら、あの時の怒りの感情を思い出して、

涙が止まらなくなる。

ということは、私はまだ彼女を許せていないのかもしれない・・・



自分の言動がどれほど人に大きな影響を与えてしまうのか、

想像力を働かせて、人と接する責任が、

私達にはあると思います。


「自分の弱さ」で人を傷つけない努力を

私達はし続けなければならないと思います。


リニューアル式典も終わって、ホルンのほうは一段落。

でもこちら、私とおかんのグリーフワークは終わってない!

ひとまず書ききっちゃおう!

それからまた次を考えよう。


☆☆☆☆☆


2013年6月24日(月)


この日はわずかな希望を持って、朝病室に向かいました。

転院希望が通って足の治療をしてもらえれば、

お母ちゃんは元気になるかもしれない。

何度もお世話になっているその病院までは車で1時間半もかかるけど、

もしも転院できることになったら、その道中でお母ちゃんの大好きな紫陽花の花を

絶対どこかで見せてあげよう。

そう思いながら病室に向かいました。


でも、担当医から聞かされた言葉は絶望的でした。

病状と転院の希望を話したが、そちらの病院ではもう対応できることがないとのこと。

お母ちゃんの命を諦めろ、そう言われているようでものすごく辛かったです。


あの担当医からの説明だったからなんじゃ・・・

なんて不信感は払拭できませんでしたが、

素直に従うしかありませんでした。


お昼休み、透析室にお母ちゃんの様子を見に行きました。

そしたら、透析をやるために腕の血管を繋げて太くしているシャントが、

もう使えなくなってしまったとのこと。

13日に他病院で広げる治療をしたばかりなのに。

その治療をするために一時退院までして、すごく辛い思いをしたのに。

もう使えないって・・・

シャントを広げるPTという治療は1度やってから3ヶ月は間を開けなければできない治療。

11日しかたっていないので、もちろんPTはまだできない。

ひとまずはその日は足の血管から透析をしていました。

こんなことは初めてのこと。

右腕のシャントはもう使えないから左腕に新しく造らなければならないとのこと。

7月に入ったらその外科手術をすることを告げられました。

13年前にシャントを造る時に左腕は血管が細すぎてできなかったから、

利き腕である右腕に造らざるを得なかったのに・・・

今更難しいのでは・・・

そう思いつつも外科手術を受けるとなれば入院が継続できる。

無理やりに退院させられることもないし、

ゆっくり退院先の施設も探せる。

お母ちゃんの命がつなげられるならもうなんだって承諾する!




真岡市民会館リニューアルオープン☆

ついにこの日がやってきました♪


耐え忍んだ3年3ヶ月。
涙なしでは語れません・・・苦笑
いろいろありましたが(いろいろってなんて便利な言葉なんでしょう・笑)、

この間に経験できた全てのことを糧に、

真岡オケがそして真岡の音楽文化が更に発展していけるよう、

精進していきたいです。


ここまで支えてくださった多くの方への感謝の気持ちを忘れずに、

また一歩前進していきましょう♪o(^-^)o


☆☆☆


前にもブログで書きましたが、

今回の合唱とのコラボは、第九演奏会の打ち合わせ後の駐車場での立ち話しから生まれました。


『花は咲く』オケの持ち曲としてあって良かったです・笑 復活を成し遂げたホールにピッタリでした。 

泣かずに演奏した自分を褒めてあげたい・笑


『真岡市民の歌』のほうは楽譜探しからでした・・・。

オケ版は一応ありましたがいろいろ物足りず、コンミスが素晴らしく編曲!

毎日お昼の時間に流れていて耳馴染みではあっても、なかなか歌として聴く機会のなかった市民の歌。

市制60周年の今年、しかも市民会館のリニューアル式典でお披露目できたのことはとても嬉しく光栄なことでした。

お客さまの反応が良かったのもとても嬉しかったですね。


演奏後、立ち話しのお相手だった前団長さんと、実現できた喜びを分かち合いました。

聴いているお客さまが喜んでいただける音楽、これからも大切にしていきたいです。


その合唱団の歌の本番も聴くことができたのですが、

その中の嵐の『ふるさと』すごく良かったです。

混声合唱で聴くと心にガツンと響きますね。

しかもまた、歌詞が涙を誘う。

というわけで、聴きながらこちらでは号泣。

ここ数日、涙腺決壊中なのでもうダメでしたね・苦笑


オケのほうは、演奏前に前代未聞のハプニングがあって

舞台上でみんな爆笑だったり、

コットベリーちゃんが市民の歌で謎のダンスを披露したり、

とても楽しい本番となりました☆


奇しくも1年前の今日は母の葬儀の日。

悲しい記憶の日が、1年後、嬉しい記念日に変わるとは☆

音楽をやっていて救われていることは、本当に沢山あります。

感謝・感謝です。

ピカピカの客席に、ピカピカの舞台。

本番用の椅子は某有名ホールと同じもので、

一脚ウン万円もするそう。

反響板のおかげで音響もかなり良くなりました。


なのに・・・3年分のホコリがつもった譜面台・笑

さすがにこのままリニューアル式典を迎えるのは切なすぎる・・・

みんなで協力して綺麗に拭いてあげました。


『花は咲く』の歌詞は、そのまま母を思い出すので、

合唱の歌声を聴いていると泣けてきます。

でも、感傷にひったてる場合じゃない!

自分ちゃんと吹かなくちゃヘ(゚∀゚*)ノ



いつもはアメブロ書いてからそれをFBに貼り付け~ってしてるけど、
今日は先にFBに載せてみました。
皆さんからの温かいメッセージが本当嬉しかったです。

(FBより)




今日は母の命日です。1年前の今日、母は旅立ちました。
母の大好きだった紫陽花と百合をお供え。
1年経って思うことは沢山ありますが、今の気持ちを書いておこうと思います。
(長くなります・苦笑)

まずはじめに、この1年、様々な形で私を支えてくれた皆さん、本当にありがとうございました。...
最愛の母を亡くした悲しみはとてつもなく深く、正直半年ぐらいは毎日のように泣き続けていました。
やっと一人の生活にも慣れ、心から大丈夫と言えるようになったのは、ごく最近のことでした。
でも、友達や先輩、オケの皆さん、職場の皆さんや、姉や甥っ子・姪っ子、
本当に沢山の人達が楽しい時間を共有してくれたことで、ものすごく救われました。
腑抜けだった私を寛大に見守ってくださって、ありがとうございました。
一緒に泣いて、一緒に笑ってくれて、ありがとうございました。

2度の離婚経験と長年の闘病生活を強いられていた母の人生は
本当に辛く苦しい時期が沢山ありました。
その度に姉妹で母を支え乗り越えてきました。

「生きていて良かった」そう母に思ってほしくて、
二人きりで過ごした11年間は母のために尽くしました。
母娘女同士であるがゆえに衝突も多々あり、亡くなってからもそのことを後悔することが何度もありました。
それでも、季節の行事を慈しみ、美味しい食べ物を一緒に楽しみ、
沢山の音楽に触れ、沢山の素晴らしい景色を共感し、
大切に紡いだ母との暮らしは、本当に本当に幸せでした。

(お母ちゃんと話したい。)
(お母ちゃんの作った餃子やけんちん汁を食べたい。)
今でもふとそう思って、喉の奥がキュンとなってしまうこともあります。
でも、亡くなった母を大切に想い続けることを「負」とは思わず、ありのままでいきたいと思います。

強く優しかった母を誇りに思いながら、
精一杯生きていきたいと思ってます。

パワー全開でいきますので、これからもよろしくお願いしまっす♪

一気に書きすぎ?苦笑

でも、命日前にちゃんとしておきたいので!

これは自分へのけじめブログです。


ずっと、心の中にあったあの日々のこと。

ここに吐き出して、置いておいて、

心軽くして、また前に進んでいくんだ!


ふと、お母ちゃんの最後の日々を思い出したくなったら、

このブログを読めばいいんだってね。


☆☆☆☆☆☆

お母ちゃんの入院中も、極力自分達の予定とかは優先させて、

なるべくみんなで協力し合って、長く続けられるようにしよう。

姉ちゃん達とそう約束してました。


だから、ずっと前から予定していた大阪旅行も予定通り行かせてもらったし、

最後の週末は普通にホルンの演奏会のゲネプロと本番に出演させてもらってました。



2013年6月22日(土)


この日は午後から室内楽のゲネプロでした。

なので、昼間のうちに行くことにしました。

食欲のないお母ちゃんのために何かを作ってあげたい。

そうだ!ポトフを作って持っていってあげよう♪

と思いつき、食べやすいように小さめに切った野菜で作ったポトフを昼食の時間に合わせて

持って行きました。

そしたら、駐車場でちょうどコアラ姉ちゃんと遭遇♪

病室に行ったら、yuria姉ちゃんがいる♪

娘三人が揃って、しかもお母ちゃんの大好きなポトフ、

ついでにあんころ餅とりんごジュース☆

お母ちゃんにとってはとても幸せな時間だったようです。

「今日はあったかいポトフも食べれたし、みんなもおったし、賑やかで楽しかった」

そう話してくれました。


室内楽のゲネプロに参加して、

また病院へ。

でも、夜から予定が入っていたので、

面会終了時間までいられず・・・

あと5日しか時間がなかったのに、

全ての予定をキャンセルしてでもそばにいてあげれば良かった、

あとでこの日のことも何度も何度も後悔しました。

ちょうど夏至の日でした。



2013年6月23日(日)


室内楽の本番の日。

でも、ほとんど心ここに在らず。

初対面の人ばかりだったから、

こんな状態の時に気を遣うのも難しい。

お昼を食べたあと、出番の時間まで一人で散歩しました。

散歩と言ってもそんな呑気なものじゃなくて、

宇都宮の街中にあるお寺さんを見つけて

そこで少し気持ちを落ち着かせていました。

そこにすごく綺麗な紫陽花が咲いていました。

しかも、お母ちゃんが大好きなガク紫陽花。

またお母ちゃんを紫陽花を見に連れて行ってあげたいなぁ。

どうか、どうか、実現できますように。

お願いしてきました。


本番後、必要な物を買って病院へ。

その途中、yuria姉ちゃんからメール。

ふりかけを持ってることがバレて、お母ちゃん怒られちゃったって。

あと、お菓子を持っていたら強制退院させられちゃうって。

食欲がないお母ちゃんが少しでもお粥を食べられるようにと思っていたのに、

おかず食べられなくても、お菓子でも良いから食べられたら元気になるかも

って思っていたのに。

なにが規則だクソくらえって感じだったけど、

お母ちゃんが問題患者になっちゃうのはかわいそうだから、必死でこらえる。

それよりも、お母ちゃんが怒られてしょげていることがかわいそうで・・・

後で話しを聞いたら、怒ったのは看護助手の人だったそう。

看護師さんに聞いたら、ふりかけは問題ないとのこと。

それで食べられるなら良いんですよって。

病状もなにも知らずにただ規則だけを押し付けるその看護助手の方が

許せん!正直そう思ったけど、おとなしくしてました。


自分がつらい時でも、いつも私の心配をしてくれるお母ちゃん。

この日もまず、

「本番どうやった?うまくできた?」って聞いてくれたのでした。

録音したから今度聴かせてあげるね。

そう言ったけど、その約束は果たせませんでした。


この日、yuria姉ちゃんファミリーが来てくれたことを喜んでました。

姉ちゃんがいうにはちょっと意識が朦朧としてる感じだったそうだけど。


あと、イケ姉ちゃんが来てくれたそう。

そう、うちは4姉妹です。

がイケ姉ちゃん、いつもの入院だろうぐらいに思ってたらしく、

入院してることメールしてもなんの音沙汰もなく・・・

お母ちゃんも逆に心配してたほどでした。


もう、長くは生きられないかもしれないから、

時間があったら会いに行ってあげてくださいな。


そんなメールをしたのでした。

この日がイケ姉ちゃんとお母ちゃんが会えた最後だったから、

会わせてあげられたのは良かったかな。


いつもの入院の時は暇つぶしにテレビを観てたお母ちゃん。

1回目の入院の初めの日にテレビカードを買ってあげたのに、

「1000」から数字が減っていない。

お母ちゃん、テレビ観る元気もないんだね。

ちょっと無理やりにでも頭の活性になればと思って、

ちょうどやっていた八重の桜のオープニングを聴かせたら、

ボリュームが超大きく設定されていたこともあって、

「いい、いらん。」って返されました。


だからかな、お母ちゃんが亡くなってから

思い出しちゃって、八重の桜が観れなくなりました。

2013年6月17日(月)


再入院。週末の負荷もあってお母ちゃんの状態はより悪くなっていました。



2013年6月19日(水)


確か、この日だったかな。お母ちゃんが最後の冗談を言ってくれたのは。

同じ病室だったおばさま達はとても優しいかた達で、

私にも気さくに話しかけてくれてました。

その日はちょっとヒラヒラで花柄のスカートを履いていったら、

おばさま達が

「とっても素敵なスカートね。似合ってるわよ。」

って言ってくださって、そしたらお母ちゃんがすがさず、

「『し〇むら』のじゃないんだね」

って。面白いことをいうのが大好きだったお母ちゃん。

でも、毎日体がしんどくてきっとそれどころじゃなかったんですよね。

大好きなおしゃべりもほとんどできなかったし。

でも、その時のその発言が、お母ちゃんらしくて嬉しかったのでした。


担当医に呼ばれて説明を受ける。

私だけではなくてお姉さんもってことで、

コアラ姉ちゃんに都合合わせてきてもらいました。

その話の中で姉ちゃんも感じたって、

最低な医者だって・・・

人のことを悪くは言いたくないし、

そういうブログにはしたくないけど、

でも、本当、患者のこと家族のことなんてどうでもいい、

稼働率をあげることしか考えていないように思えた、

悲しい面談でした。

そして、ポータブルですら使用できないほどの状態になってしまったのに、

週末に退院するように告げられました。



2013年6月21日(金)


朝、出勤途中に病院から電話がありました。

すっごく嫌な予感がしたのですが、

やっぱり・・・

朝、ご飯を食べたあと調子が悪くなってしまったので、

すぐに来てください。とのこと。

職場に車を停めて、

真向かいなのでそこからすぐに病室に向かいました。

ご飯食べたあとに胸が苦しくなってしまったそう。


担当医から説明を受ける。

先日の説明では全く話してくれなかった

検査の結果のこと。

全身が動脈硬化で予後は厳しい。


・・・予後は厳しい?


・・・お母ちゃんもうすぐ死んじゃうってこと?


あとどれくらい?


本当は聞きたかったけど、怖くて聞けませんでした。


何か希望はあるかって聞かれたので、

「足をなんとかしてあげたいです。足が治って歩けるようになれば

体の状態もよくなるのでは?足の治療を受けていた〇〇大学の病院を紹介してもらえませんか?」

と訪ねました。

足の痛みが取れて歩けるようになれば、まだ希望はある、

そう信じたかった気持ちと、

一刻も早くこの医者からお母ちゃんを離してあげたい

そう思った気持ちがありました。

すぐに連絡してくれたのですが、担当の先生が学会で不在だそう。

月曜日に確認するということになりました。


そして、今は落ち着いているけど、このまま退院するのは心配だから様子を見ましょうとのこと。


担当してくださっていた看護師さんが言ってくれたこと。

「入院継続できて良かったですね。今の状態で退院するのは心配でしたもんね。」

そう、看護師さんが退院させられてしまうことを一番心配してくてたのでした。


容態が落ち着いたのでこのまま透析を受けるとのこと。

私も仕事に戻らなければならなかったので、

1階まで見送りました。

担当医に言われたことが、頭をぐるぐる回っていたけど、

お母ちゃんの前では明るくいなくちゃ。

「お母ちゃん、また昼休みに来るけ、がんばってきてね。」

「うん。わかった」って手を振ってくれたお母ちゃん。

涙目になっていた看護師さんの姿が印象的でした。


お昼休み透析室に行ったら担当医に呼ばれました。
とにかく、足を何とかしてあげて欲しいことを伝えたら、

「どうなってるんだっけ?ちょっと診てみようか」


・・・・・・・!!!!

えっ!?今まで診てもいなかったの?

塗り薬処方してただけで、ちゃんと診てくれてなかったの?


「あ~これは壊死してるね」


ひどすぎる担当医の対応に愕然としました。


退院後、昼間一人で過ごすこととても難しい。

どこか、療養型の施設を紹介してもらったほうがいい。

とのこと。

それは、もうお母ちゃんと一つ屋根の下で暮らせないことを意味してました。

悲しいけれど、覚悟しなければ。

来週の26日。地域医療室の方と面談することになりました。

奇しくもその日がお母ちゃんの最期の日となったのでした。


お母ちゃんに会って、また仕事に戻って、

仕事が終わってから今度は病室へ。


その時の会話の中でお母ちゃん

「足、切断してもいいよ」

って言ったんです。

「そっか、足を切断してでも、お母ちゃんは生きていたいよね」

って聞いたら、

「うん。生きたい。」

って言いました。


予後は厳しいと言われたことなんて、

話すことなんてできませんでした。


足を切断してでも、生き続けたい。

お母ちゃんにとってはこの世は

どんなに苦しくたって、居続けたい大切な場所だったんですよね。


お母ちゃんの思いを知ったら、

自分の命、自分の人生を無駄にしちゃいけないって思いました。


どんなに辛くても、最後まで生きることを諦めなかった

お母ちゃんを誇りに思ってます。

2013年6月13日~17日の朝まで、

これがお母ちゃんが我が家で過ごせた最後の日々でした。


13日の夕方に、介護用品で買ったものの中に、

足浴用のバケツがあったので、

それにお湯をはって足を洗ってあげました。

「気持ちいいねぇ」ってお母ちゃん喜んでくれました。

それから、入院してた病院からもらった足用の薬を塗ってあげて・・・

見るからにとても普通ではない状態の足。

認めたくないけど、もうすでに壊死していたんだと思います。

認めることは本当に怖かった・・・。


1日おきの透析には行かなくてはならないので、

14日の朝はコアラ姉ちゃんが手伝いに来てくれました。

二人でお母ちゃんを抱えて階段を降りる。

二人でならなんとかできた。このことがお母ちゃんにとってもすごく嬉しかったようで、

「希望が見えた。」って喜んでました。


15日はyuria姉ちゃんが来てくれて、

ラタトゥイユ風料理を作ってくれました。

お母ちゃんはこれをえらく気に入ったみたいで、

「ナタトゥーユ美味しかったねぇ」

「ナタトゥーユまだあるかねぇ」

って何度か言ってました☆

娘が作ってくれる物はそれだけでとっても嬉しくてたまらなかったのだと思います。


16日はコアラ姉ちゃん家族、yuria姉ちゃんが来てくれて、

3人で髪を洗ってあげました。

yuria姉ちゃんの機転のきいたやり方で、

お母ちゃんをベッドに寝かせたまま洗ってあげることができました。

最後に三人の共同作業でお母ちゃん孝行できたことは、

今でも本当に良かったと思ってます。


最後にお母ちゃんと一緒に観たテレビは、

そのちょっと前に亡くなった俳優さんが出演していた、

介護のドキュメンタリードラマでした。

最後にお母ちゃんが一人で観ていたテレビは、

大好きなさだまさしさんが出演していた番組でした。


トイレするたびにポータブルトイレの中の新聞紙を替えて、

替えたばっかりなのに、またトイレってなって、あ~あってなったり。

これからのことを考えると、

悩んだり、不安になったりで、

とても穏やかとは言えない時間だったけど、

最後にお母ちゃんと想い出のいっぱい詰まったうちで過ごせたのは、

良かったです。今になってそう思えるようになりました。