トレーニング疲れた
記録の準備開始
グラントは何度か修羅場を乗り越えて提出。久しぶりに3度ほど背筋が凍りました。パスは難しい気がする。本来がんばらないといけない人がどんどん抜ける今の状況では、これで精一杯です。いつかボスに怒られる気がするが、正直ぼくのせいじゃない所で怒られても、困るだけ。我慢するしかない。さて、記録の準備を開始。電気結線の確認と、センサの導入、プログラムの確認と、記録データの確認、解析までちゃんと通るかを確認、とかやってたら、やっぱり時間がない。訓練も始めないといけないし。その後やっと、電極の準備にかかれるわけです。でもここで確認を省いたら、絶対後で後悔する。1、2週間は割くべきでしょう。あとは、個人的に心理学の論文が書きたくてうずうず。どうやって書いたらいいのかな。
グラント書き2
手術と注入
ご卒業のシーズン
奥さんのD公聴会も無事終わり、D獲得がほぼ決まったようです。おめでとうございます。発表もなかなかわかりやすかったようで、何よりです。だいぶ力がついたといえると思います。後は手術がんばってください。ぼくが出た大学院でも卒業のシーズンらしく、修論の概要が載っていました。まあ、こんなもんだろうなーという研究の中に、はっとさせる研究がちらほら。自分の修士のころを思い返しても、これはかなりレベルが高い、とうならせるものが少なくとも複数ありました。順調に研究室は発展しているようで、何よりです。ぼくも、もう一度理論をやりたいです。まじで。いまは、今の仕事のプライオリティーを下げるわけには行きませんが、理論に対する憧れの気持ちはまだ消えてません。ぼくといえば、グラント書きでまだてんてこ舞いです。がんばります。
レビューとテレビ
奥さんのレビュー論文がちょっと前に採択になった。周囲の厳しい環境の中、よくがんばったと思う。内容はちょっと挑戦的なところはあるが、面白いし悪くない。この、挑戦的、という態度は、ぼくは重要な科学者の態度のひとつだと思う。ここで、科学者として、挑戦的な内容を提出するということと、テレビ番組のように、誤っているかもしれない内容を公表するという態度は似ているようでまったく違う。この機会に、研究者、科学者としての論旨の進め方について考えてみたい。奥さんの論文は、レビュー論文という性格から、かなり論理の飛躍もあって、いいすぎだろ、という面が多々ある。しかしながら、この飛躍は、新たな仮説を作るために、あえてそれを行っている。これは、たとえばテレビ番組の捏造とどう違うのだろうか?ひとついえることは、論文では、仮説は仮説として取り扱っているという点がある。仮説とは、まだ検証されていないが、それが検証されると、これも言える、あれもいえるというブレイクスルーが期待できる壁みたいなものだ。そして、最も重要なことは、その壁を見つけるのは、いわば、その世界をよく俯瞰し、実験のつぼ、に収束させるという知的作業が必要とされる点にある。その意味で、仮説を見つけ、定義し、明文化するすることは、非常に重要な科学的検証の過程のひとつだ。こういうのをいわば、PhDをもつヒトは、身に着けていることを期待されている。そのあいまいな事実の中から、本質を見極めるのは、当然捏造ではないし、逆にセンスを要する知的作業と考えられている。翻って、テレビ番組はどうだろう?明確な仮説はあったのだろうか?それを持ってブレイクスルーとする壁を明確にして、それを乗り越えるというプロセスをとっているのだろうか?テレビ番組では、結果ありきで、科学的裏づけで信用を獲得しようとしているように見える。これは、科学というのが、仮説の探求、つまり、仮説が棄却される恐れを知りながら議論する態度ではなく、科学が、いわば確定した仮説の、実証に用いられているということを意味する。すなわち、ここには、すでに知的議論が終わった、確定した事実(あるいは嘘)の宣伝のために用いられるいう構造を見て取れる。ぼくは、その裏の構造、つまり、確定した事実(あるいは嘘)がどのようにして生まれたのかということを非常に知りたい。これこそが、今の日本における、一般的な視聴者が要求する、科学の生成過程に相当するからだ。当然のことながら、科学というのは、それ自身で成長するのではなく、スポンサーに依存する。たとえば、脳科学にしても、あまたあるテーマの中から、世界に対して、あるいは、納税者に対してインパクトのある研究をしようと科学者は腐心する。それは、科学、サイエンスという、フィルターを介して見えなくなってはいるが、現場の科学者は、世の中の流れに対して、意外に敏感なものだ。なぜならば、税金がスポンサーになっている限り、それに見合った、研究をすることを要求され続けるからだ。じゃあ、もっと密接に、国民に接しているように見える、テレビ番組における仮説の立て方は、もっと明確な社会における科学のあり方を明らかにするように見える。その意味で、ぼくはどこかの社会学者が、このテーマを真剣に取り扱ってくれることを願う。
テレビ番組における捏造
今日は、ちょっと事務をして、トレーニングの後、マップの最終確認をしようと思ったが、明日も早いこともあるので、やめて、早めに帰る。
日本では発掘あるある大辞典なる番組が捏造問題を引き起こして、終了したらしい。科学と社会との関係を考える上でこういった科学的な検証番組の不祥事は、僕にとって興味深い。正直言って、僕はこういった科学をわかりやすく、エンターテインメントとしてみせる番組が、昔からあまり好きではない。もしかしたら、嫌いかもしれない。なので、あんまり見たことない。見ても、なんだか脱力感しか覚えないし、それを見て、熱狂している視聴者を見ると、なんというか、彼らにとって、科学とはこういうものなのかと、覚めた目で見てしまう。そういう扇動的な番組を作るスタッフが、データに誠実であるはずがない、と、単なるイメージながら、思う。でもたとえば、僕ら科学者の卵が、社会に出たとして、実際に求められるのは何なのだろう?正確なデータ?誠実な解釈?きっと違うのではないか、と僕は肌で感じてきた。対象団体(この場合は納豆?)に利益をもたらす扇動的なデータなのではないか。その感覚が、僕をして、こういった番組に対する嫌悪感を生み出し、しかしながらなおも、もし研究者として生きていけなくなったら、仕事として、そういう類の仕事に従事する未来の自分像をどこかに感じている。もう、そういううそで固められた生活手法は、社会システムは、やめにしませんか?誰かそれに対して、発言をしてくれませんか?
