小説:雲の端、土の味
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葛城の峻険な峰々に霧が流れる、飛鳥の時代。 「厳の修行者」と「堕ちた仙人」――対照的な二人が交錯する短い物語です。
小説:雲の端、土の味
葛城山(かつらぎさん)の頂、岩の鼻に、一人の男が立っていた。 名は役小角(えんのおづぬ)。後に役行者と呼ばれる男である。その背後には、荒々しい気配を放つ二匹の鬼、前鬼と後鬼が影のように控えている。
小角の眼下には、大和の国が箱庭のように広がっていた。彼の目的は、この葛城と吉野の金峯山(かねのぷせん)の間に、岩の橋を架けること。神々を脅し、山を動かすほどの峻厳な意志が、その鋭い眼光に宿っている。
「……飛べなくなったか、久米(くめ)。」
小角が低く呟いた。 霧の向こうから、一人の男が喘ぎながら坂を登ってきた。かつては雲を友とし、空を自在に駆けたはずの久米仙人である。しかし今の彼には、仙人らしい軽やかさは微塵もない。泥に汚れた麻の衣をまとい、額には脂汗がにじんでいる。
「……相変わらず、高いところがお好きなようで、小角殿。」
久米は岩に手をつき、情けない声を上げた。彼は先日、空を飛んでいる最中に、川辺で洗濯をする女の白い脛(はぎ)に見惚れ、神通力を失って墜落した。今や彼は、ただの「重労働に従事する男」に成り下がっていた。
「女子の足に惑わされ、空から落ちるとは。修行が足らぬどころの話ではない。お主、恥ずかしくはないのか」
小角の言葉は、冬の滝の水のように冷たかった。神や鬼を従える彼にとって、人の煩悩に負けるなど、あってはならない失態である。
久米は地面にへたり込み、ふっと破顔した。 「恥ずかしい? おお、死ぬほど恥ずかしかったですよ。ですがね、小角殿。墜落して地面に叩きつけられたとき、鼻先に土の匂いがしたんです。それが、ひどく懐かしくてね」
「土の匂いだと?」
「ええ。雲の上は清らかですが、味も素っ気もない。女の足を見て『美しい』と思い、落ちて、泥を噛む。仙人だった頃には忘れていた、この身の重み。それが案外、悪くないのですよ」
小角は鼻で笑った。 「貴様はただ、己の弱さを正当化しているに過ぎん。私は橋を架ける。神々を使い、この世に不壊の道を造る。それが修行者の本懐だ」
「橋、ですか。結構なことです」 久米は立ち上がり、汚れた手で己の膝を叩いた。 「ですが、私は橋ではなく、寺を建てようと思います。それも、私の神通力ではなく、この鈍臭い足で歩き、このひび割れた手で木材を運んでね。落ちたからこそ、見える仏様もいるようですから」
二人の視線がぶつかる。 一人は、空と山を支配しようとする超越者の瞳。 一人は、地べたを這い、人間を愛そうとする落人の瞳。
「勝手にするがいい。次に見る時は、さらに卑俗な姿になっているだろうよ」 「ええ、せいぜい笑ってください。ですが小角殿、あんまり空ばかり見ていると、いつか首を痛めますぞ」
久米は愉快そうに笑いながら、再び重い足取りで山を下りていった。 その後ろ姿を見送りながら、小角はふと、己の手を見た。鬼を縛り、神を動かすその手は、久米の手のように泥で汚れてはいなかった。
「……土の匂い、か」
小角は再び、厳しい修行者の顔に戻り、霧の中へと消えた。
後に、小角は流刑の身となりながらも空を飛び続けたという伝説を残し、久米は俗世の中で巨大な久米寺を建立し、人々に親しまれた。
大和の空の下。 正反対の道を歩む二人の足跡は、今もなお、葛城の風の中に混ざり合っている。
あとがき
役行者は「理想や規律」を、久米仙人は「失敗と再生」を象徴しています。二人の間に直接的な対決の記録はありませんが、同じ時代に「飛べた男」と「落ちた男」がいたという事実は、当時の人々の人間観を映し出しているようで非常に興味深いものがあります。
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69才ですが。!
このバカたれが。!
シェー!
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