おかやす学・岡安学|川越市

おかやす学・岡安学|川越市

おかやす学(岡安学)のオフィシャルサイト

みんな生老病死という道を通っていかなければならないから

 

 

 

 

 

最近のユーチューブ動画で、僧侶を名乗る人たちを見かけます。

 

が、現世利益を説く輩(やから)ばかりが目立ちます。

 

生老病死の問題を説いていません。

 

諸行無常を説いていません。

 

現世利益で人間の欲望や不安を煽っています。

 

 

 

 

以下のブログ記事は、私が感染症から重篤な合併症を起こし、朦朧とする意識の中で、川越市から、さいたま市の、大きな病院へ救急搬送され、そこの医師から、いのちの保証はない、と言われた後に、奇跡的に助かって、書かせていただいたものです。

 

 

そのときは、念仏が自然と口からこぼれることはありませんでした。

 

 

自分に生きていくお役目がまだあるのなら、助かりたい、と強く思ったものです。

 

 


 

 

 

 

 

 

川越市のおかやす学です。

 

 

広島県広島市の最広寺の中村英龍氏の御法話を動画で聞かせていただきました。

 

 

「有無をはなる」というテーマでした。

 

 

仏教の第一人者に中村元(はじめ)先生という方がいます。

 

 

その方が、この世の中で、いわゆる「勝ち組」、「負け組」と呼ばれる人たちを、ある生物にたとえています。

 

 

いわゆるこの世の中で「勝ち組」と自負している人のことを、ある生物にたとえると、それは「恐竜」なのだそうです。

 

 

そして、いわゆる「負け組」と思い込んでいる人のことを、「カブトガニ」にたとえています。

 

 

 

 

 

恐竜は、生物史上、最強と言われた生き物でしたが、絶滅しました。

 

 

絶滅した理由は、氷河期になって、食べ物がなくなった、または隕石の落下によって、食べ物がなくなったという説があります。

 

 

しかし、仏教の視点から解釈すると、次のようなことが言えるそうです。

 

 

 

 

 

恐竜は、地球上で最も力を持った生き物になった。

 

それゆえに自然界とのつながりを必要としなくなった。

 

自然界とのつながりから孤立した生き物のたどる道は一つしかない。

 

それは、絶滅の道あった、と。

 

 

 

 

このことを「勝ち組」と自負している人にたとえます。

 

 

どんなに能力があっても、自分の力だけでやってきたのだと思い込んでいる人は、まわりの人とのつながりを必要としなくなる。

 

 

まわりの人とのつながりや協力を必要としなくなると人間社会の中で孤立していく。

 

 

孤立した人のたどる道は、やはり絶滅の道である、と。

 

 

 

 

 

 

一方で、「カブトガニ」は、今も生き残っています。

 

 

しかし、このカブトガニも、絶滅の危機に直面しています。

 

 

このカブトガニは、自分を守るために背中の甲羅(こうら)をどんどん大きくしていきます。

 

 

しかし、大きくしすぎてしまったために、自分で身動きが取れなくなってしまったのです。

 

 

甲羅を大きくして自分を守ろうとしすぎたことがカブトガニを絶滅の危機に追いやってしまったのです。

 

 

 

 

 

 

わたしたち、人間も、どんなに強がっていても、こころの弱い生き物であります。

 

 

そのこころの弱いわたしたちが、自分を守ろうとして自分の殻(から)を大きくしていったらどうなってしまうのでしょうか。

 

 

やがて人間社会の中で孤立していきます。

 

 

人間社会の中で、孤立した生き物のたどる道は、何なのでしょうか。

 

 

恐竜と同じで、絶滅です。

 

 

 

 

人に勝っては、おごり、人に負けては、絶望し、世を恨む。

 

そうした両極端な生き方から、逃れられないわたしたちの姿が、阿弥陀如来の光の前で、照らし出されているのです。

 

わたしたちの日常は、こうした両極端な価値観でおおわれています。

 

でも、自分ではそれが気づかないのです。

 

気づかないから、人を傷つけていることもわからないし、人を傷つけながら自分が傷ついていることもわからない。

 

 

 

 

中村英龍氏は、続けます。

 

 

 

若いうちが華(はな)よ、という人がいます。

 

 

働けるうちが華(はな)よ、という人がいます。

 

 

若い人に迷惑をかけたくない、という高齢者もいます。

 

 

でも、ほんとうは、違うんだ、と。

 

 

若い人生も華(はな)であれば、年老いた人生も華(はな)なのだ、と。

 

 

働ける人生も華ならば、働けなくなった人生も華なのだ、と。

 

 

人のお世話をすることができる人生も華ならば、人のお世話になる人生も華なのだ、と。

 

 

 

 

 

なぜ?

 

 

 

 

 

だって、いつかは、生老病死というその道を、誰もが通っていかなければならない人生だから。

 

 

わたしたち家族がみんな、思いのとおりにならないそれぞれの人生を、自(みずか)ら引き受けて生きていかなければならないから。

 

 

わたしたちの閉ざされたこころは、お互いつながりあうことで、開かれます。

 

 

そうして、つながりあって、はじめてわたしたちは、思いのとおりにならないお互いの姿や、お互いの生き方を、敬い合うことができるのではないでしょうか、と。