ハバクク書
私は、見張り所にたち、
とりでにしかと立って見張り、
主が私に何かを語り、
私の訴えに何と答えるかを見よう。
 
主は私に答えて言われた。
幻を書きしるせ。
これを読む者が急使として走るために、
板の上にはっきり書きしるせ。
 
        
                      
                     この幻は、なお、定めの時のためである。
それは終わりについて告げ、
もしおそくなっても、それを待て。
それは必ず来る。遅れることはない。
 
見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

よく亡くなった友の部屋で音楽を聴いていた事がよくあった。彼はいつでもC型肝炎のだるい身体を横にして、ゴロンとしている事が多く、私もソファによっかかって、CDを聴いていた。
五十過ぎの男が、あがた森魚の『赤色エレジー』を聴きながら、この曲いいよなぁ・・・かったるくて、厭世的なところが等とメランコリックな会話をよく交わしていた。
 
カンパネラこの曲の演奏はすごいと言っていた!彼がボーとしてラジオから流れて来る曲を聴いていたら“ハー!”として飛び起きたと言う。誰が演奏しているのか?フジコ・ヘミングと聞いてすぐにCDを買いに行ったそうです。  彼の感性の鋭さを垣間見た気がしました。
 
フジコ・ヘミングがピアニストの道を断たれ、挫折してある病院の掃除婦の仕事をしている時、そこに一台のピアノが置いてあった、なにげなくピアノを引いていると、車いすに乗った老人が看護婦さんに引かれ、曲に吸い込まれるようにやって来た、その目には涙がいっぱい溢れていた。この老人は家族も無くすべての希望を断たれ、無感覚な人間になって、言葉も無く、感動すらなくなってしまっていたのだった、その老人の目からはいっぱいの涙があふれでていたのです。 
 
初めて、 フジコ・ヘミングは自分の持っている天命を知りピアニストの道を再び歩きだしたそうです。
 
ハバクク書これは神さまがフジコ・ヘミングへ送られたメッセージだったのです!
 
フジコ・ヘミングはあまり譜面通りには演奏しないと聞いたことがあります。それこそが彼女の持っている感性が自由にその曲を通して響きわたり感動を与える事のできる天性なのでしょう。
 
友の心を揺さぶったのが分かる様な気がします。

友の夢をみた

名の知らない教会の片隅で

木切れで何かを地面に書いていた

礼拝帰りのひとたちが脇を通り過ぎていく

振り返る人もいない

それでも木切れで何かを書いていた

私はそのそばにダビデの星を書いた


 彼たちと最初に出会ったのは、東名の海老名サービスエリアだった。ステッペンの伊豆ツーリングの翌日だった。何かに引きつけられるようにバイクを飛ばしてロードエンジェルスの集合場所に行ったのを思い出す。彼らと走ったら、まるで青年のようにハシャギ心が和んだのを思い出す。自分と同じこころを持った奴と出会った感じがして、俺もこのままでいいんだ!と嬉しかった。神さまが彼らと出会わせてくれた。以来友として付きあって来た。
しかし数年前に召された友を思うと今も寂しい。そんな彼の夢をみた。

 『荒野の狼の独り言』

クリスチャンよ!
    大切なものを守るため怒れよ!
               忿怒の形相を持てよ!
       大切なものとはキリストの愛だよ!

私の守護神は不動明王だと言われていました。不動明王をお参りするときは『ノマクサンマンダーザバラダンセダーマカロシャダーソヤタヤウンタラターカンマン』と経を唱えたものでした。
般若心経を唱え、尺八を吹きながら霊場を巡礼したこともありました。

不動明王は大日如来の化身だと言われます。
不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。またその忿怒の形相は周りの危険をも顧みず我子を救おうとしている必死の形相とも言われる。まさにその忿怒の形相に秘められた我が子を思う慈しみの心の溢れた姿であるといわれています。

その必死の不動明王を守るためその東西南北を守っているのが、東を守る持国天、西を守る広目天、南を守る増長天、北を守る多聞天。所謂四天王である。

空海の開いた真言密教は密教では三輪身といって、一つの「ほとけ」が「自性輪身」(じしょうりんじん)、「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という三つの姿で現れるとする。「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、「正法輪身」(菩薩)は、宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指す。そして不動明王にしめされた「教令輪身」である。

如来は色々なものに姿を変え煩悩を抱えた衆生を救いに顕れると言われている。
空海が唐の長安で修行をしていた時、その当時長安では『景教』が隆盛を極めていた。景教とはネストリオス派キリスト教の中国での呼び名であって、十二使の一人トマスの教えの影響を受けた宗教と言われている。

三位一体は三輪身に・・・・。

釈迦が修業の末、悟りを開くために菩提樹の下に座した時、世界中の魔王が釈迦を挫折させようと押し寄せたところ、釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、魔王群をたちまちに超力で降伏したと伝えられる。

これも正に、荒野の中でサタンと対峙しサタンを退けたキリストの姿である。

空海の教えの中に巡礼行者の『同行二人』といわれるものがある。『同行二人』とはいつでも弘法大師様と共にある。

それはキリスト教のイエスさまと共にある教えと一緒で、空海の真言密教の中にも『法然』『親鸞』と同じ様な
キリストの姿が見える。

ゆえに、『あらゆる宗教を越えた全ての上にイエス・キリストの真理は輝いている!』のである。

わたしはいつも思っている事がある。
それはキリストの強さである。強いがゆえに弱くなれるのである。
十字架のうえのキリストの姿、ボロボロに打ちひしがれたその弱い姿こそ、強き者があえてその姿を私たちの為に、さらけだしてくれているほど私たちにとって辛いものはない!

キリストの慈愛にあふれたその姿の中に大切なものを守ろうとする忿怒の姿がある。
釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、魔王群をたちまちに超力で降伏したと伝えられる。その時の釈迦の内にも不動明王の忿怒の姿があった。

キリストにも忿怒の姿がある!
釈尊にも忿怒の姿がある!
大切なものを守ろうと必死の姿が有る。大切なもの救おうとする必死の姿がある!何事にも揺るがない不動の強さを秘めている忿怒の形相がある。
愛は寛容だとキリストは教える。寛容とは強さである。何事にも揺らぐことのない不動の強さである。
十字架のキリストほど強い者はいない!大切なものを守ろうとする、大切なものを救おうとする不動の強さが、キリストから溢れ出いる!忿怒の形相の内に慈愛に溢れた不動の愛が秘められている。
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この記事を書いた時、少し不安でした『忿怒の形相・姿』の意味が解かってもらえるかなぁ?と思っていました。仏教てき思考からとらえた時、仏教の思考は日本人のDNAを持っている私たちにとって意外なほど端的に真をとらえている言葉が有ると以前から思っています。
西洋思想第一主義でなく、キリストを考える時、太古から培われた日本人としてのDNAによる感性が大事な要素になるのではないかと思っています。宣教率1パーセントと言われている日本の現状はメッセンジャーである牧師さんたちの感性に責任がかかっています。
日本人のD
NAに訴える様なメッセージのできるメッセンジャーが必要とされています。キリストを考えた時、いつも私たちの目にするキリストは優しさの溢れた御顔で、まして十字架のキリストに於いては、弱弱しく悲しそうな印象を受けるものが多いのです。仏教の仏たちはどれも凛として、静寂の中に久遠の真理を表しているものが多いのです。
ならばキリストはと考えた時、聖書の中でも大食いの大酒のみで怒りもすれば、涙を流す奔放快楽なキリストを感じさせられる箇所もあります。キリストはどういう人だったのかと考えた時、当時は預言者・救世主と言われた偽者が大勢いました。その中で大衆はキリストに目を向け始めました。良く通る大声で凛としたその姿は決して弱弱しいものではありませんでした。大工の息子であるイエスはきっと体も大きく立派な頼りがいのある容姿をしていたと思っています。その奔放快楽な人間味あふれる姿から語られる御言葉に大衆はどんどん引きつけられて行ったのだと思います。ラザロの場面ヨハネ11章はそんなキリストをよく表されていると思います。憤り、涙を流すそれこそがイエスさまの慈愛の溢れた忿怒の姿です!ラザロの死は神の栄光を表すものだとイエスさまは言います。信仰の薄い者たちにイエスさまは涙を流し憤りを表し大声で叫びます。信仰に依って人々を救おうとして必死の姿がそこにあるのです。それこそがイエスさまの心の奥に隠された忿怒の姿ではないでしょうか!
イエスさまがあの過酷な十字架の刑と屈辱に耐えられたのは、我々を救おうとした使命と愛を必死に守ろうとした姿の中に不動の真理を忿怒の姿をもってサタンと戦い抜かれた強さが秘められているのです!
私たちも怒れる所は怒ろう。大切なものを守るために。
まやかしの賛美もあるんだよ。まやかしの祈りもあるんだよ。神を愚弄するものには怒りを示してもいいのではないのかな





今、月に一回、西村菜美先生のオカリナの個人レッスンを池袋のスタジオで受けています。自己流に成りがちなので、きちんと音楽の基礎を教わっています。シューベルトの『アベマリア』を教わっていますが、教会で賛美出来るのを楽しみに一生懸命練習しております。

百万分の一の命


私の友人がメキシコを訪れた時の話しです。 夕暮れ時、人影のとだえた海岸を歩いていると、遠くの方に誰かが立っているのに気がつきました。 近づいてみると、メキシコ人の男が何かを拾っては海に投げ入れているのです。
さらに近づくと、それはヒトデでした。 男は、引き潮で波打ち際に残されてしまったヒトデを、一つ一つ拾い上げては海に投げ入れていたのです。 どうしてそんなことをしているのだろうと不思議に思った友人は、男に話しかけました。
 
「やあ、こんばんは。 さっきから気になっているんだけど、何をしているか聞いてもいいかね?」
「ヒトデを海に帰してやっているのさ。 見ろよ、たくさんのヒトデが波で打ち上げられて、砂浜に残されてしまっているだろう。 おれがこうやって海に投げてやらなかったら、このまま干からびて死んじまうよ」
「そりゃあ、もっともな話だが、この海岸だけでも、何千というヒトデが打ち上げられているじゃないか。 それを全部拾って海に帰してやるなんて、どう考えても無理な話じゃないかな!?それに世界中には、こんな海岸が何百もあるんだよ。 君の気持ちはわかるけど、ほんの一握りを助けたって、何にもならないと思うがな」
 
これを聞いた男は白い歯を見せてニッと笑うと、友人の言葉などおかまいなしに、またヒトデを拾いあげ、海に
投げ入れました。 
「いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでるさ」
そう言うと、また一つヒトデを拾い上げ,海に向かってなげ入れたのでした。

そうです!ほんの小さな小さな物語です。
 
友人は言いました。「この海岸だけでも、何千というヒトデが打ち上げられているじゃないか。 それを全部拾って海に帰してやるなんて、どう考えても無理な話じゃないかな!?それに世界中には、こんな海岸が何百もあるんだよ。 君の気持ちはわかるけど、ほんの一握りを助けたって、何にもならないと思うがな」
 
そうだよね!誰もがそう思ってしまうよね。
 
でも、この男は、友人の言葉などおかまいなしに、またヒトデを拾いあげ、海に投げ入れました。 
「いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでるさ」
 
『いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでる』・・・・・・・・この心だよね!たとえ百万の命を助けられなくても
心から喜んでくれる一つの命があることの大切さ!  私たちはついつい諦めてしまう寂しいよね!
イエスさまはこう言われている 『YUO DID IT TO MI』と。 どんな小さなものにも手を差し伸べることは、私にしたことだと。 イエスさまの愛はこのような小さな一歩から始められるのです。忘れ去られた、隠された小さなものに目を向けられている、イエスさまの愛がそこにあるんだね!