こんにちは。
アレテーを求めて~
今日もトコトコ( ・ω・)
弁護士の岡本卓大です。
さて、
『宇宙一わかりやすい僕らの憲法のお話( ・ω・)』
のお時間です。
1 憲法って、なんだろう?立憲主義のお話
2 民主主義って、多数決のことじゃないの?
3 三権分立 独裁者を生まないためのシステム
4 憲法前文って、なぁに?
5 象徴天皇制とジェンダーのお話
6 「個人の尊厳」と「公共の福祉」って、なんのこと?
7 「人権」とはなにか?
8 税金と民主主義
9 平和主義、その本当の意義
10 表現の自由って、どうして大事?
11 信教の自由って、どういうもの?
13 ほんとに守られてますか?学問の自由
14 昔はあたりまえじゃなかった婚姻の自由
15 生存権・・・教えて、僕らの生きる権利
16 一人の個人として育つために~学習権
17 働く人の権利
18 財産権という人権
19 「平等」って、なに?
20 適正手続~刑事裁判と人権
21 憲法の条文に書いてない人権は認められないの?
22 国会とは?
23 内閣とは?
24 裁判所とは?
25 地方自治って、なんだろう?
26 憲法改正の手続のこと
27 最後に繰り返そう!「憲法」が大切な理由(最終回)
今回は、第6話 「個人の尊厳」と「公共の福祉」って、なんのこと?
です( ・ω・)
まずは、条文を見てみましょう。
憲法10条(国民の要件)
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
憲法11条(基本的人権の享有)
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
この憲法が国民の保障する基本的人権は、
侵すことのできない永久の権利として、
現在及び将来の国民に与えられる。
憲法12条(自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
国民の普段の努力によって、これを保持しなければならない。
又、国民は、これを濫用してはならないのであって、
常に公共の福祉のためにこれを利用する責務を負う。
憲法13条(個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉)
すべて国民は、個人として尊重される。
生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。
さて、憲法第3章 国民の権利及び義務の章の冒頭の条文を四つあげてみました。
では、解説していきましょう( ・ω・)
まずは、基本的人権についてです。
基本的人権とは、人間が社会を構成する自律的な個人として自由と生存を確保し、
その尊厳性を維持するため、それに必要な一定の権利が当然に人間に固有するもの
であることを前提として認め、そのように憲法以前に成立していると考えられる
権利を憲法が実定法的な法的権利として確認したものです。
この基本的人権の根拠は、なにものかから、与えられたのではなく、
国際人権規約(社会権規約と自由権規約)前文に述べられているように、
「人間の固有の尊厳に由来する」ものです。
この人間尊厳の原理は、「個人主義」とも言われ、日本国憲法は、
この思想を「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法13条)
という原理によって宣明しています。
もう少しくわしく見てみましょう( ・ω・)
日本国憲法における人権の観念は、憲法11条が、
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない
永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」と
述べている点に、最もよく具体化されています。
この人権には、固有性・不可侵性・普遍性があると言われています。
①固有性
人権は憲法や天皇から恩恵として与えられたものではなく、
人間であることにより当然に有するとされる権利である。
②不可侵性
人権が不可侵であるということは、人権が、原則として、
公権力によって侵されないことを意味する。
(行政権はもちろん、立法権も、憲法改正権すらも、
侵すことはできない。)
③普遍性
人権は、人種、性、身分などの区別に関係なく、
人間であることに基づいて当然に享有できる権利である。
さて、ここで、憲法第3章の表題が、
「国民の権利及び義務」となっていることもあり、
日本国内にいる日本国民以外にも基本的人権は保障されているのか
が一応、問題となります。
これは、憲法学では、人権の享有主体の問題として議論されてきました。
外国人の人権の問題は、
人権が前国家的・前憲法的な性格を有するものであり、また憲法が国際主義の立場から
条約および確立された国際法規の遵守を定め(憲法98条)、かつ、国際人権規約に
みられるように人権の国際化の傾向が顕著にみられるようになったことを考慮するならば、
外国人にも、権利の性質上適用可能な人権規定は、すべて及ぶと考えるのが、妥当です。
判例・通説もそのように考えています。
まあ、人権が、人間に当然に認められるものである以上、外国人も
基本的人権の保障がされるのは、本来、当たり前の話ですね( ・ω・)
さて、『個人の尊厳』を基本原理とする日本国憲法ですが、
もちろん、個人の自由といっても、完全に無制限なものではありません。
個人は、社会との関係を無視して生存することはできないので、
人権もとくに他人の人権との関係で制約されることがあるのは、当然です。
日本国憲法は、『公共の福祉』による制約が存在する旨を一般的に定める形式を取っています。
憲法学の通説的な見解は、一元的内在制約説と呼ばれ、
「各人の人権の享有およびその主張に対して、なんらかの制約が要請されるとすれば、
それは、つねに他人の人権との関係においてでなくてはならない。
人間の社会で、ある人の人権に対して規制を要求する権利のあるものとしては、
他の人の人権以外には、あり得ないからである」
この人権相互に生じる矛盾・衝突の調整をはかるための実質的公平の原理が、
『公共の福祉』に他ならないとされています。
しかし、このような通説的見解に対して、長谷部恭男教授は、次のように、批判しています。
①表現の自由や思想・良心の自由といった通常「人権」として想定するものは、
殺人の自由や強盗の自由と同列に論じられるべきではない。
標準的な社会契約論によれば、人々は天賦の人権をよりよく保全し、
共同生活の利便を享受するためにこそ国家を建設したはずであるが、
その際、人々がよりよく保全しようとした自然権に、殺人の自由や強盗の自由が
参入されていたとは考えにくい。
そもそも他者との共存可能な存在として人間を考える限り、
他者へ害悪を加える自由は、
そのような人間の属性に含まれないはずである。
②「人権」を本来、無制約とする通説の考え方は、
公共の福祉を名目とする国家による規制をも無制約とする危険をはらんでいる。
他者にほしいままに害悪を加えようとする生来、邪悪な存在として人間を
想定する限り、平和な社会生活を成立させ、維持すべき国家の行動範囲が
無制限に及んでいくことも不思議ではない。
その結果、あらゆる人権は、そもそも公共の福祉の観点からの制約を
内在する「一応の自由」にしかすぎないとの結論が導かれる。
社会に完全に飲み込まれない形で「個人を尊重」するためには、
「公共の福祉」の観点からしても制約されるべきでない「人権」
を保障する必要がありはしないかという問題は、このような観点からは、
見失われることになる。
私は、この点については、長谷部説に賛成ですね。
例えば、人を殺す、人に暴力を振るう、人の物を盗む、人の性的自由を犯す、
人のプライバシーをさらす、差別的な攻撃的表現をする、意図的にデマ情報を拡散する、
といったことが、本来の人権と同様に保護されるべき「人権」であるとは
現代の人類の水準からは考えられないからです。
言い換えれば、
①自分自身の人生の主人公として生きるための「人権」を誰もが保障されている。
②他人を傷つけてまで好き勝手にふるまう権利は誰にもない。
③「公共の福祉」とは、他者と共生して生きるそれぞれの個人に対する
共生のための制約である。
というところでしょうかね( ・ω・)
そこで、それでは、人権とはなにか?
が問題となってきます。
この続きは、次回の第7話 「人権」とはなにか?
にて。
読んでくださり、ありがとうございました。