こんにちは。

アレテーを求めて~

今日もトコトコ( ・ω・)

弁護士の岡本卓大です。

 

 

 

今回の『補講』は、天皇制についての第2弾です( ・ω・)

なお、『補講』より深く憲法を知りたい人へ

の他の記事を読みたい方は、以下のまとめ記事から、各記事をご覧下さい。

 

 

さて、前回は、日本史に残る女性天皇たちのことを見てきました。

 

 

今回は、女性天皇を否定する皇室典範がどのように作られたかを見ていきたいと思います。

参考文献は、

 

『天皇はいかに受け継がれたかー天皇の身体と皇位継承』(績文堂出版)

歴史学研究会編

 

です。

 

皇室典範は、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法と

同日に制定されます。

まずは、上記参考文献から、皇室典範制定略年表を引用してみます。

 

①1870年12月 四親王家以外の親王家の二代目以下の臣籍降下を決定

②1875年1月18日 宮内省 皇子・皇女誕生に関する諸式制定

③1876年3月頃 宮内省「皇親」

④1876年5月30日 皇子女誕生後直ちに親王内親王とする

⑤1876年10月 元老院第1次案「日本国憲按」

⑥1878年3月 岩倉具視「奉儀局開設建議」

⑦1878年7月 元老院第2次案「日本国憲按」

⑧1880年7月 元老院第3次案「国憲」

⑨1882年12月18日 内規取調局設置

⑩1884年3月17日 制度取調局設置

⑪1886年1月頃 制度取調局調査を基とする「皇室制規」

⑫1886年1~2月 井上毅「謹具意見」

⑬1886年2月 「宮内省立案第二稿帝室典則」

⑭1886年6月10日 「宮内省立案第三稿帝室典則」

⑮1886年6月頃 伊藤「宮内省立案第三稿帝室典則」を宮中顧問官に提示

⑯1887年1月 柳原前光「皇室法典初稿」

⑰1887年2月 井上毅「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」

⑱1887年2月 井上毅「皇室典範・同説明案」

⑲1887年3月14日 柳原前光「皇室典範再稿」

⑳1887年3月20日 高輪会議

㉑1887年4月 柳原前光「皇室典範艸案」

㉒1888年5~6月 枢密院審議

㉓1889年1月 枢密院再審議

㉔1889年2月11日 宮中三殿奉告

 

1875年から宮内省で皇族についての論議が行われるようになったようです。

きっかけは、明治天皇の子どもの誕生。

皇位継承について、考えるようになったということですね。

それから14年もかけて、調査、案の起案、審議が行われたようです。

 

1875年に元老院に憲法調査の命が下り、近代化のための憲法制定の動きも出てきます。

右大臣岩倉具視は、皇室制度は憲法に先立ち古制を斟酌して制定するという議論を提起します(⑥)

 

明治14年(1881年)の政変によりイギリス型の議会制度を作ろうとした大隈重信が失脚すると、

伊藤博文を中心としたプロシア(ドイツ)型憲法の作成が政府方針となり、伊藤博文が渡欧します。

岩倉具視は、内規取調局を設置し、皇室制度の調査を行います(⑨)。

しかし、伊藤博文が帰国する前に岩倉具視は死去し、岩倉の調査結果は、伊藤に引き継がれませんでした

 

伊藤博文が作成した「皇室制規」(⑪)では、女帝・女系容認、帝位終身という点で、欧州法をよく学んだものでした。

 

それでは、女帝が否定されたのは、どこの時点だったのでしょうか?

 

女帝に対する反対意見が初めて出たのは、⑧の元老院第3次案「国憲」のときのようです。

元老院議官から出た反対意見は、皇女が結婚した子孫は「異姓」である。

「異姓ノ子ニシテ帝位継承スルコトヲ得バ之ヲ万世一系ノ皇統ト云可(いうべか)ラズ」

との反対意見だったようです。

 

これって、現代、令和の時代に生きる私などからしたら、

お婿さんもらえばいいじゃん( ・ω・)

と思うところですが・・・

 

それでも1886年の皇室制規(⑪)では、女系・女帝は認められていました。

これに対して、井上毅が謹具意見(⑫)を出し反対します。

参考として「東京横浜毎日新聞」の掲載された嚶鳴社の女帝論争のうち、

女帝反対論、すなわち、女帝は摂位に類する(天皇位の代行、摂政のような存在である)、

配偶者が政治力を行使する問題があるという意見、社会の慣習として男子相続であるという

意見が引用されていたようです。

 

男女差別の思想そのまんまですね( ・ω・)

男帝であっても配偶者と姻戚が政治的影響力を行使する可能性も実例もいくらでもあるところですが。

いずれにしても、次の⑬宮内省第二稿帝室典則から女帝・女系は消えています

 

そして、結局、1889年2月11日に公布された大日本帝国憲法及び皇室典範では、

天皇は、男系男子が継承するものとされました。

そして、それが、2023年のこの令和の世でも、続いています。

 

ここからは、参考文献をふまえた私個人の見解です。

岩倉具視と伊藤博文は、ともに、天皇の皇位継承、宮中への議会関与、宮中の政治化を

避けたいと考えていました。

ただ、おそらく、その動機は、まるでちがいます。

 

岩倉具視は、天皇の皇位継承・宮中の問題は、

天皇家の「家の問題」であって、天皇を政争から守りたいという立場から

宮中の政治化を避けたかったのだと思われます。

 

それに対して、プロシア(ドイツ)を参考に立憲君主制の国家を建設したかった伊藤博文にとっては、

天皇は、君臨すれども統治せずという最高権威であって、

政治的実権は内閣(伊藤博文は初代内閣総理大臣となります。)が持つ

ことを考えていたと思われます。

その最高権威である天皇の皇位継承について議会に介入されたくなかった

それが伊藤博文の本音だったのではないでしょうか。

 

伊藤博文からすれば、実質的には内閣が「天皇の名で」統治を行うのであって、

天皇が女性であることは、まったく問題が無かった。

ただ、皇室典範制定の過程で、強い反対意見があったため、

女性天皇を認めない、男系男子の天皇制を採用することに政治的に決めた

 

日本の歴史には、8人の女性天皇がいます。その皇位継承についても、

岩倉具視は当然に調べ、どのように皇位が継承されてきたかをまとめていたはずです。

ただ、岩倉具視の調査した本来の皇位継承の在り方は、

報告書等の形で伊藤博文らに引き継がれる前に、岩倉具視の死亡により消えてしまいます。

 

もし、岩倉具視が伊藤博文の帰国まで、調査結果を伝えられる状態で存命していたら、

この国の皇室典範は、今とは別の内容になっていたかも知れません。

 

男女平等のこの21世紀の日本で。

それでも、男系男子の天皇にこだわりますか?

現実の現在の皇室の構成を考えても、

日本人は、主権者として、考えてみてもよいのではないかと思います。

 

次回は、天皇制シリーズの最終回。

天皇家の歴史を踏まえ、

日本国は、象徴天皇制を取り続けてきた

ことをお話できればと思います。

 

読んでくださり、ありがとうございました。