前回のブログは、仕事も職場での人間関係もボロボロで退職した話を投稿した
(これは10年ほど前の出来事で、今はほぼ癒えているので安心してほしい)
当時の私は自分の事がまるで分っていなかったと思う。
何が得意で何が不得意か。
何が好きで何が嫌いか。
何に興味を持つのか。
そんなことも全く知らなかった
~話は変わり~
元々片付けが苦手で忘れ物も多く、整理整頓というのを試みては挫折してきた私。
社会人になっても整理整頓が破綻していた私の部屋は、ゴミ溜めと化していた
前の会社に勤めていた当時、毎日が精いっぱい
自分を認めず自分を否定していた当時の私の自尊心は地球にめり込んでブラジルに旅行していたかもしれない
当時の思考はこうだ
勉強も仕事もできない最低な私。容量も悪いし相手の話もまともに聞けない自己中な自分。常に体調を崩すお荷物。
会社で必要とされていない私。こんな子供で両親に申し訳ない。兄弟は優秀なのになんで私はこんなに出来が悪いんだ。
こんな私に美味しいご飯を食べる資格は無い。
こんな私は好きな物を買う資格が無い。
こんな私に遊ぶ資格は無い。
こんな私を気にかけてくれる人たちは可哀そうだ。
こんな私に乗られている車は可哀そうだ。
こんな私の髪を切らされて美容師さん可哀そうだ。
こんな私の身体に触らせてごめんね鍼灸師の先生。。など
当時はこんな事を常に思っていたそりゃ体調を崩すわけだ
セルフ自分いじめ
夜中寝れずに悶々としていたら金縛りにあい、枕元で「ウウ・・ウ・・・ウウウウウウウウ・・」と呻き続ける霊が出現して困った
波動がバッチリ合ってしまった
ある日曜日の朝 両親が私の部屋に入ってきた。
部屋の汚さにビックリした両親は、布団にくるまって身動きがとれない私を横目に
カーテンを開け。窓を開けて外のさわやかな空気を部屋に招き入れた
「こんなに散らかった部屋だと運気が下がるぞ~」
と私に話しかけながら、両親は床が見えるほど部屋を綺麗に整頓してくれた。
両親が部屋を出て行った後、私は大泣きした
こんな不甲斐ない子供でごめん・・・と。
今なら分かる。
「ごめん」じゃない
「ありがとう」だ
涙とともに両親への感謝や愛が溢れたのだ。
悲しさじゃない。感動じゃない。
愛と感謝の涙だったのだ
私は1人じゃなかったと知った。
両親・祖父母・兄弟。
目には見えないがご先祖様達からも見守り・応援されているのだ。
見守ってくれている存在というのは、いかんせん目に見えないので実感しにくいが、生きている友人家族のように心配し温かく見守ってくれている。私たちが前に進めるように。(例外もあるようだがそれはさておき)
私たちは、たくさんの愛に包まれている
そして、愛の形は人の数だけある。
厳しく辛いものかもしれない。
過保護かもしれない。
与えられる愛情の形は自分の欲しい愛情の形ではないこともある。
その人の人生経験の中で「相手にとってよかれ」と思った愛情を、人に注いでいるということが分かった
ただ、悪意も存在する訳で、相手の行動や言動から自分への愛情を感じ取れるかどうかが大切になってくる。
そこに「愛」があるかどうか
つまり、相手の言葉や行動は自分を思いやってのものなのかどうかということだ。
そして、そもそも自分が人に対しても自分自身に対しても「愛」ある行動や言動ができているのかということ
これは「引き寄せの法則」にも関係し、人生のあり方に関わる重要なことだ
自分を愛せているなら「自分が愛されるような環境をつくれる(引き寄せれる)」
その逆もまたしかり
つまり、私は「自分を愛せていない」が故に、自分を追い込む環境を引き寄せたともいえるのだ
自分の中の愛がまだまだ発展途上であることも感じるが、愛の伸びしろは無限だ
自分の中から溢れてくる「愛」を感じ、育てながら豊かに暮らしていきたい