「いちど見てみたい!」
と思い続けている風景のひとつに、「いちめんの菜の花畑」があります。
山村暮鳥さんのあの詩に影響されてるんだナ?って、バレバレですね。笑
「
風景 山村暮鳥
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
以下 略 」
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
以下 略 」
えんえん続く「いちめんのなのはな」…
菜の花をイメージして、見渡す限りの黄色い花の連なりに思いを馳せる…。
脳内まっ黄色の渦のさなかに…
…たった一行さしこまれた
「かすかなるむぎぶえ」
一行の音の記述が、視覚以外の感覚の存在を思い出させる。
たった一行で詩の世界が、立体感を持って立ち上がってくる。
空気の匂い、温度、湿度…肌をなでる風の感触。
五感を刺激する外からの情報だけでなく、自分がかかえた浮き世の悩みしがらみや、幸福感や…をぜんぶひっくるめた場の広がりが、ボンッと出現して…。
菜の花畑の真ん中で立ちつくす自分を、ありありと感じる詩です。
その感じを、実際に味わってみたくて「いちめんの菜の花畑」に憧れているのかもしれません。
菜の花を育てて油を採るというような、自給自足の生活がすたれて、なんでもどんどん輸入してガンガン使い捨てる暮らし。
戦後しばらくして、日本がそういう方向に舵を切った時代に生まれ育ってきました。
「どっか田舎の方に行けば見られる。」「いつか見にいこう!」と、思い、思い、しながら五十路の坂を越えました。
オトナになった分、アレコレ雑事に追われておれば、季節に合わせて動くこともママならず、いちめんの菜の花畑なんて、永遠の夢だと思っていましたら…。
なんとつい近所に、
「見渡す限りいちめんの菜の花」とは言えないけれど、
「けっこう向こうまで、菜の花でいっぱい!」の風景を見つけました!
たぶん同じ思いの誰かさんが、河原の草を取って、菜の花のたねをまいて、しかるべき世話をして…このような場所を作ってくださったに違いありません。
ありがたい、ありがたいと、しばし見とれていましたが、blogのことを思い出してパチリ。
上手く撮れなくて申し訳ないですが、みなさまへの、おすそ分けです。