拙い文章を整える気力が足りないが、今この心をこの時点に繋ぎ止ておかなくてはいけない気がするので書く。


昔の話から始める。夏。
長生きだった曽祖母が92歳の天寿を全うした翌夏に、祖父が後を追うよう亡くなった。60代肺がん。早い死だった、と思う。
祖父は鳥が好きで、沢山の鳥を飼っていた。死の直前まで鳥の話をしていた。
「鳥が逃げていく。捕まえてくれ」
何もない空間に向かって死の間際に意識が混濁した祖父が言った。
鳥なんていない、と言おうとする幼い私を祖母がそっと止めて「捕まえたよ」と嘘をついた。
祖父を見送った後、祖母が「次は私の番だから」と言ったのを覚えている。

その言葉を忘れられないまま20年近く経って、「次」が来た。


昨年の夏、祖母の容体が良くないと家族から知らされた。

私はその頃グラビアアイドルとしてのデビューを控え、ファーストDVDの撮影やリリースに追われていた。
充実していたし、余裕がなかったとも言える。
初めてのDVDの撮影に心身を揉まれ気が弱っていた。
不思議なもので気が弱れば体も調子を崩す。
そんな中で、母から祖母のことを「覚悟する」ように言われ、コロナで帰省も憚られる世の中ではあったが、見舞いに行くことを選んだ。

久しぶりに実家に帰るとやせ細った祖母がいた。
何年か前に手術でポリープを取り除いたものの、胃がんが再発し腸にも転移が見られるということだった。

私は取り立てて祖母と仲が良かったわけではないと思う。仲が悪くもないが、よく懐いていたわけでもない。適度な距離がある普通の家族だった。18歳で家を出て以来、年に1度会うか会わないかといったところだった。

祖母はどちらかといえば恰幅が良くふくよかで、よく喋り、私より今どきのイケメン芸能人に詳しく、テレビショッピングで大正琴やらフィットネスマシーンやらを買い、髪も定期的に黒く染めていて、活発だった。
つい数年前までは電動自転車で何キロ先でも出掛けて行ったり、趣味で畑をいじるような、元気な女性だった。
その祖母が、一気に白髪になり、ガリガリに痩せた。

「この世から少しずつ離れて透明になっていく 」
どこかの雑誌に載っていた死にゆく人を言い表した言葉が印象に残っている。

祖母は日に日に、透明になっていくようだった。
そこには逃れられない根源的な寂しさがあった。
それを寂しいと言うことは間違っているのかも知れない。
人によってはその寂しさを儚さや生の美しさと言い表すかもしれない。
私にはあの透明を前向きに捉えるほどの心の強さがない。苦界から解き放たれ本来の姿を取り戻していくと言えるような、宗教的歓喜もなかった。
ただ一切は逃れられず過ぎて行く。
その無常と無情だけが揺らがない。

いつまでもつか分からないと聞かされてから、時間を見つけて実家に行くようにした。

祖母は亡くなる数週間前まで自力で歩いてトイレにも行けた。
食べ物はだんだんと受け付けなくなっていった。軽いものなら食べられる、汁物なら、栄養ドリンクなら1日に2缶、やがて1缶、そして3分の1缶。入院して点滴になった。

食べ物を受け付けなくなってからお見舞いには花を持って行った。自宅の部屋から花を見れるように、小さな盆栽をあげようと思った。病人には根が付いた鉢植えはマナー違反だけれど、病が根付くもなにも、終末なのだ。
梅を贈れば梅が咲くまで生きて貰える気がした。桜を贈れば桜が咲くまで生きて貰える気がした。でも、その花が咲くのを見ずに亡くなったら無念が一つ増える気がして、結局盆栽は贈らなかった。
季節の花が咲いている植木鉢にした。
来年もまた咲く。
「おかしな話だけど」母が言うことには、祖母の入院とともに花が散ったそうだ。

私が家に帰るたびに、気丈だった祖母が「寂しいから、話をしよう」と私を誘うようになった。
私は、その寂しさを、とても受け止めることが出来なかったように思う。
2人の間に流れる、やがて深く隔たる、冷たい生死の川が目に見えるようで、祖母と交わすとりとめのない会話、何気ない言葉の一つ一つが、寂しくて、寂しくて、話しながら泣かないように気を散らすのに必死になっていた。

きっともう長くないことを本人も分かっていて、受け入れるしかない。私の口から語れることなんて何もなかった。ただ頷くだけ。
「ありがとう」とも「頑張って」とも言えない。
別れ際はいつも「また来るね」。
それしか言えない。

客観的に見たら、他人から見たら、こんなことくらいで感情的になるのはおかしいのかも知れない。祖母は高齢だった。人に迷惑をかけず、家族がいて、ぎりぎりまで家に居て、曾孫の顔まで見れて、幸せだったと言えるだろう。
でも、私は悲しかった。
何ものにも癒せない。逃れることができない、絶対の悲しさがある。
そう思えるだけ、私は恵まれているのだろう。


家族の誰かが欠けるたびに、失った悲しさに加え、次は、次は、と逃れられない悲しさに構えてしまう。生きていること、生まれてくること、逃れられない悲しみ。
出生か反出世か。
自分の生き方も考える。次の世代も考える。


祖母の最後のお見舞いはZOOMのモニター越しだった。痛み止めの薬で意識が朦朧としているようで、聞こえてはいるけれど、返事はできないといった様子だった。
閉じたままの目が少し潤んだように見えた。
私はやはり「頑張って」とも言えず「おばあさん、来たよ。また来るね」しか絞り出せない。
それ以外の言葉は嗚咽にしかならない気がした。
死が近いのを感じた。
その翌日、祖母は息を引き取った。

私の日常は何も変わらない。
人を元気づけるのが仕事。水着になって、カッコつけて、ぶりっ子して写真を撮る。
誰もが楽しいだけじゃない苦しい日々を生きてる。私の仕事は、そんな誰かの日常をちょっとだけ明るくすることだと思う。

楽しい姿を見せるために、楽しくない戦いも沢山ある。
もしかしたら私の身内の死を喜んでる人も居るかも知れない。
私が傷付いたり死んだりすることを待ち侘びてる人も居るのかも知れない。
そんなことどうでもいいから、無料のエロ画像だけ黙ってアップしてよ!と思われてるかも知れない。
心とか内面とか知りたくないと思われてるのかも知れない。

悲しみも、辛さも、声に出した瞬間から、受け手は「いいね」ひとつでそれを消費できる。
どう消費するかは受け手に委ねるしかない。
ときどき果てしなく空っぽに、突き放されていく感覚がある。
私はグラビアアイドルだから、そういう娯楽のサービス業だから、発言も存在も人々に消費して頂く商売だ。そういう生き方だ。
だから、みんなは間違っていない。
みんなに見てもらわないと職業上の私は存在できない。それを選んで仕事にしている。
震災も黙祷せず、戦争に平和を叫ばず、有名人の死にも無反応。せめてもの真心で、今まで多くの悲しみに口を閉ざしてきた。
私には語ることのできない悲しみが、世の中には山ほどある。
例えば、知り合いであっても親密でない人が亡くなった時には、それをツイートしたくないのだ。本当に仲が良かった人の悲しみを、私の呟きで汚したくない。

ついこの間まで生きて話していた祖母が蝋人形みたいに冷たい抜け殻になった。
棺桶の中「眠るように安らかだ」とみんなは言ったけど、私は、祖母の目がもう二度と開かないことが怖かった。
ついこの間まで生きてそこにいたのに。
祖母の骨。骨になってしまった。
生きていたのに。

腹が立った。生きているうちにしか孝行は出来ないのに、と。

ライフイベントとしての他人の死は、自分の生を考えるためにあるのかも知れない。




祖母が亡くなってから、葬式までの間に、髪を乾かすドライヤーが急に動かなくなった。同時に天井の照明が切れた。停電かと思ったが、他の家電は動いていた。
照明はスイッチを入れると点灯したが、ドライヤーは買い替えた。
霊的な何かだったのだろうか。
アマゾンプライムは翌日配送だから助かった。新しいドライヤーで髪を乾かす。


岡田紗夜