歴代総理の胆力「村山富市」(2)米紙「ミイラ政権」と酷評 | Hideoutのブログ

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 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。

    幾ら下駄を履かせても赤点しか与えられない総理だわなあ!


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アサ芸プラス
6/11(木) 09:55

 一方、安定政権ではあったが、身の丈に合わなかったことも多々あった。その最たるものが、未曽有の阪神・淡路大震災、オウム事件に直面したが、危機管理という点ではほぼ無力であった。総理になるまで官邸にほとんど顔を出したことはなく、当然、官邸の情報収集システムにさえうとかったのだから、ムリもない。村山はオロオロするばかりで、事実上、そうした対応は自民党がすべて仕切ったものだった。

 また、沖縄の駐留米兵による少女暴行事件が起こり、この「沖縄問題」は一つ間違えば日米関係がゆがみかねなかったが、やはり自ら手を打つ姿勢は示さず、いたずらに沖縄の“不満”を聞くにとどまる形になっている。すでに、この間の平成7年4月の統一地方選で足元の社会党が敗北、一方で社会党内のゴタゴタも目立ち、この頃には村山自身の政権維持への気力もなえたようだった。

 そうした中、米紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」は、次のように報じたものだった。

「無気力な対応しかできぬ村山政権は、もはや“ミイラ政権”である」

 政権末期、村山と親しかった政治部記者は、村山のこんな問わず語りの声を聞いている。

「『家内には苦労をかけた。働きに働いて私を支えてくれた家内が可哀想でならない。選挙区(大分県)の100年以上経つボロ屋を建て直し、ホッとさせてやりたい』と。総理は元々、物事に執着のない人だから、精一杯やればそれでいいんじゃないかとの思いが窺えた」

 退陣後は、社会党を社民党と党名変更、党勢の新たな拡大を策したが、世の追い風はなかった。白く長い眉毛で「トンちゃん」と親しまれた村山は現在96歳、なおかくしゃくとしている。

 今や“風前の灯”の社民党が、唯一の心残りでもあるようだ。

■村山富市の略歴

大正13(1924)年3月3日、大分県生まれ。学徒出陣、明治大学専門部卒業。大分市議、県議を経て、昭和47(1972)年12月、社会党より衆議院議員初当選。平成6(1994)年6月、村山連立政権組織。総理就任時70歳。平成12(2000)年6月、政界引退。現在は社民党名誉党首。

総理大臣歴:第81代 1994年6月30日~1996年1月11日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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    この人物は矢張り田舎の議員くらいがお似合いだろうな。

    僕が義務教育期間を過ごした栗山町の大きくないけど小さくもない炭鉱の廃業当時の労組委員長を思い出す。ご多分に漏れず、社会党から立候補して町会議員を務めていた。炭鉱廃業後も町会議員を続けたそうだ。嘗ての支持者だった炭鉱労働者がゼロになっても他の町民たちの支援が有ったとか。·····・・・。

    そしてこんな朴訥な人物を担ぎ上げた河野洋平は史上最低の自民党総裁だよなぁ!