上野国(こうずけのくに)

八幡荘(やわたのしょう)

市民活動センター(ソシアス)からの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう

第8回 上野国(現群馬県)が大国に

811(弘仁2)年、大国となる

 

 平安時代の群馬県はあまり知られてないのですが、9世紀になると人口が増加してきて農業生産が高まりました。上野国の等級が上がったことから推測されています。

 当時の諸国は4等級に分けられていて

    A 大国 たいこく

  B 上国 じょうこく

  C 中国 ちゅうこく

  D 下国 げこく

 上野国(現群馬県)は古墳など有るのに悔しながらBランクの上国でしたが、811(弘仁2)年、平安京の中央政府から上野国はBランクの上国から、Aランク大国となりました。

 この等級は何で判断されるかというと、人口増加・農業生産力・経済力・文化発展・特産物などで判断されたようです

 ベスト13に入ったのです(*^.^*) 

明日はベスト3となった話

by大国おじさん

上野国(こうずけのくに)

八幡荘(やわたのしょう)

市民活動センターからの地域ガイド要請により、準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう

第7回 国分寺への寄進

 

天平13(741)年
3月24日 聖武天皇の彷徨中、
恭仁京にて、国分寺建立の詔が発せられました。
次の2つの事案が續日本紀に記されています。

つまり、749年には国分寺が完成し、寄進物が届けられた。741年に詔が出て8年以内に国分寺が完成していた。いかに上野国(現群馬県)の人々が迅速に国分寺建立を行ったかが伺い知れます。(*^_^*)

by八幡荘おじさん

上野国(こうずけのくに)

八幡荘(やわたのしょう)

市民活動センター(ソシアス)からの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう

第6回 高崎市に残る国分寺跡

ここに車を停めて

この橋を渡り

ガイダンスセンターが見えてきます

正面に築垣が復元されています

金堂の礎石が残っています

  • 指定種別:国指定史跡
  • 名称:上野国分寺跡(こうずけこくぶんじあと)
  • 指定年月日:大正15年10月20日

伽藍配置は

七重の塔のあらまし

ガイダンスセンターにある模型

明日は上野国の迅速対応の記事です

by八幡荘おじさん

上野国(こうずけのくに)

八幡荘(やわたのしょう)

地域活動センターからの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう

第5回 国分寺建立の詔不許複製

續日本紀 第14巻より

天平13(741)3月24日

和文不許複製

 国分寺建立の詔
 3月24日(天皇は)詔した
 朕は徳の薄い身であるのに、添(かたじけな)くも重い任務をうけついだ。まだ民を導くよい政治を広めておらず、寝てもさめても漸(は)じることが多い。
 (しかし)昔の明君は、みな祖先の仕事をよくうけつぎ、国家は安泰で人民は楽しみ、災害がなく福がもたらされた。どういう政治・指導を行なえば、このような統治を実現できるのであろうか。
 このごろ田畑の稔りが豊かでなく、疫病が頻(しき)りにおこる。(それをみると身の不徳を)漸じる気持と恐れとが替わる替わるおこって、ひとり心をいため自分を責めている。そこで広く人民のために、あまねく大きな福があるようにしたいと考える。そのため先年(天平九年11月3日)、駅馬の使を遣わして全国の神宮を修造させ、去る年(天平九年3月3日)には全国に高さ一丈六尺の釈迦の仏像を一つずつ造らせるとともに、大般若経を一揃いずつ写させた。
 (そうしたところ)この春から秋の収穫まで、風雨は順調で、五穀もよく稔った。これは真心が通じ願いが達したもので、答えとして不可思議な賜わり物があったのであろう。恐れるやら驚くやら、自分でも心が安まらない。(そこで)考えてみると、
金光明最勝王(こんこうみょうさいしょうおう)経には、もし国内に、この経を講義して聞かせたり読経・暗諦したり、恭(うやうや)しくつつしんで供養して、流布させる王があったなら、我ら四天王は、常にやって来て擁護しよう。一切の災いや障害は、みな消滅させるし、憂愁や疫病もまた除去し癒やすであろう。願いも心のままであるし、いつも歓びが生じるであろう」と述べてある。そこで全国に命じて、各々つつしんで七重塔一基を造営し、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経をそれぞれ一揃い書写させよう。
 朕はまた別に、文字が金泥の金光明最勝王経丁を(手本に)則って写し、(七重)塔ごとにそれぞれ一揃い置かせる。神聖な(仏の)法が盛んになって、天地とともに永久に伝わり、(四天王による)擁護の恵みを、死者にも生者にも行きとどかせて、つねに十分であるようにと願ってのことである。
 一体、(七重)塔を造る寺は、またその国の精華ともいうべきものである。必ずよい場所を択(えら)んで(建て)、本当に永久であるようにすべきである。人家に近くて、悪臭が及ぶのはいけないし、人家から遠くて、(寺に)参集するのに人々を労(つか)れさせるのは本意でない。国司らは各々(国分寺を)厳(おごそ)かに飾るよう努め、あわせて清浄(しょうじょう)を守るようにせよ。間近に諸天(四天王)を感嘆させ、(諸天がその地に)臨んで護ることを願うものである。
遠近に布告して、朕の(以上の)意向を(人民に)知らせよ。
 また国ごとに国分僧寺には、封戸(ふこ)五十戸・水田十町を、国分尼寺には水田十町を施入することとした。僧寺には必ず僧二十人を住まわせ、その寺の名は
金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)とする。尼寺には尼十人とし、名は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)とする。両寺とも(僧尼は)仏教の戒を受けていなければならず、もし(僧尼に)欠員があれば、すぐに補充するべきである。その僧尼は、毎月八日に必ず(金光明)最勝王経を転読しなければならない。(また)月の半ばに至るごとに、受戒の掲磨(こんま)(天台・浄土宗では「かつま」)を暗謡し、毎月の六斎日には、公的にも私的にも漁猟や殺生をしてはならない。国司らは、つねに検査を加えよ。

高崎市に建てられた国分寺は、この詔によります。

明日の記事は、高崎市に残る国分寺跡です

by八幡荘おじさん

上野国(こうずけのくに)

八幡荘(やわたのしょう)

市民活動センターからの地域ガイド要請により、準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう

第4回 国分寺建立の端緒

聖武天皇(日本の第45代天皇)

系図では

生年:701年9月18日〈大宝元年8月12日〉~

    756年6月8日〈天平勝宝8歳5月2日〉

在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉~

    749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉

聖武天皇が即位してから、悪い事が続きました。「聖武天皇の苦悩」・「聖武天皇と仏教」を御覧ください

 

 

        下図のように、聖武天皇は、彷徨の旅に

聖武天皇の彷徨図「不許複製

天平12(740)年
8月 下旬 藤原弘嗣(不比人の三男)の上表文、起兵   
9月 3日 朝廷は藤原弘嗣を謀反と断定、征討軍派遣
9月29日 聖武天皇の勅が出された。   
10月23日 弘嗣逮捕
10月26日 
聖武天皇は関東行幸に出発

       関東とは、関の東。関とは鈴鹿の関を言う。  
11月 1日 藤原弘嗣が処刑される
11月 2日 河口頓宮着
11月 5日 聖武天皇が、藤原弘嗣の処刑の報告を受ける
11月14日 赤坂頓宮着 11月26日不破頓宮着
12月11日 粟津頓宮着 
12月15日 恭仁宮着 平城京の大極殿は解体され恭仁京へ移設され遷都。
天平13(741)年
  
3月24日 
国分寺建立の詔(恭仁京で発せられた)
  9月 9日 宮の造営のため大養徳・河内・摂津・山背の四カ国の役夫

        5,500人を招集した。
天平14(742)年
  8月と12月の2回にわたり紫香楽宮へ行幸 造離宮司
天平15(743)年
  4月 3日~16日、7月26日に紫香楽宮へ~11月初めまで4ヶ月滞在
  9月21日 紫香楽宮へ遷都。
 
10月15日 
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)建立の詔(紫香楽宮で)
        仏法を体現化した法身仏(ほっしんぶつ)「光り輝く者」

        を意味するヴァイローチヤナを音訳した語。
10月19日 盧遮那仏の造立の体骨柱を建てるため甲賀寺の寺地を開いた。

つまり、聖武天皇は、国を救うために国分寺建立、及び、毘盧遮那仏建立の、2つの方針を打ち出しました。明日は高崎にも建立された「国分寺」の建立のを読みませう(*^_^*)

 

by八幡荘おじさん