はい、メリークリスマス。(←社交辞令。笑)


このシリーズ記事『美女の法則2』で、『美人は三日で飽きる』と書いた。

また折りに付け、過去『ブス!』という記事などでも最近はイイ女、可愛い女の子が多くなったと書いた。


ある意味で、現代は“平均化”が進んでいるのだとも思える。

現状を捕らえれば、不景気だ不況だと言われても、相対的に10年単位、50年単位で見れば、昔に比べて人々の生活は随分と便利に豊かになってきたのだと思う。

そうして様々なものの格差が薄れ、結果、平均化されてきている。


人間とは勝手なもので、例えば、周囲に何でも揃っていて、整然としていて至れり尽せり、何不自由のない環境というものに対して時として却って物足りなさを感じ、そしていずれはそれに飽きるということが言える。
また、微細に渡って計算されたものに対して息苦しさを感じることもある。

逆に、創意工夫ができる余地というものがあって、そこに向上心が見い出されれば飽きることはない。

「人」に関して言えば、欠点があるからこそ人間らしく情緒があるというもので、また、魅力的に感じる人というのは、その人が持ち合わせる愛嬌であったり、感情、感性の豊かさだということが言えるのではないだろうか。

仮に完璧な『美人』が居たとして、それを『美しい!』と感じたところで、何か他人事であったりする部分もあるのだと思う。



さてここで、仮に「見た目」としての『美人像』は果たして現代と昔とでは違うのかというお話。

それこそ江戸時代以前、浮世絵に表わされる「美人」が、本当に「美人」を代表するものであったのかどうか、実のところ大いに疑わしい点もある。

明治時代以前には写真は無く、それを実像として確かめることはできないが、では、写真が発達し始めた明治・大正の頃はどうだろうか。


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▲写真家小川一真の「雪の日の外出」。
これを撮った小川一真は、明治31年に『Photographs of Japanese Customs and Manners』という写真集を出版している。
彼はまた日本写真会も設立している。


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▲陸奥亮子(陸奥宗光夫人)明治の東京で「鹿鳴館の華」と呼ばれた人物。有名な写真である。
▲右も同様に陸奥亮子の正面写真。


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▲左:柳原白蓮(びゃくれん)。大正三美人のひとり。
▲右:戸田氏共伯爵夫人・極子(きわこ)。岩倉具視の次女。陸奥亮子と並んで「鹿鳴館の華」と言われた。


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▲左:実は以前、「老いぼれブログ」の「今日は何の日」記事(削除済み)に登場したことのある末弘ヒロ子。
彼女は日本初の令嬢美人コンクールで全国1等になった。当時16歳。
▲右:朝吹磯子。サガンの本の翻訳者、朝吹登水子の母親。長岡外史の娘。朝吹英二の息子の妻。
また、本人は30歳からテニスを初め、40歳近くで全日本ダブルスで優勝した経歴を持つ。


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▲左:「大正三美人」のひとり、林(日向)きむ子。後の代議士日向輝武の妻。また後に彼女は文筆家として活躍。
▲右:同じく林きむ子。


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▲左:下谷の芸者、さかえ。大正時代の「絵葉書」のモデルとして有名。
▲右:「ゆうこりん」…ではなく(笑)、新橋の芸妓、音丸。さかえと同様、「絵葉書」のモデルとして有名。

(以上、各人物の詳細について興味のある方はググってみてください。)


いかがだろうか、当時の『美人』、現代でも充分に『美人』として通用するそこそこの美女揃いである。

そもそもその時代は写真の被写体になるなど稀なことで、そうした意味でも選りすぐりの「美人」だったのかもしれない。

それにしてもレヴェルの如何はともかく、当時の人々と現代の人々、その美的感覚にそれほどの隔たりがないということが判る。
その当時、「美人」はまだ“稀少”であったとするなら、尚更なことである。



更にここで、「Wikipedia」から『美人』という項目を探ってみると…

《美人》
文化や時代によって美人ないし美女の基準は異なる。
同じ地域でも時代により美人の定義は変化し、同時代であっても地域・文化圏の違いによって基準は異なる。
さらに、ある共同体での一般的な美人像がその共同体内の全ての個人に共通している訳ではない。
価値観の多様化が進んだ社会であれば美人に対する基準にも個人差が大きくなる。
過去には日本にも美人(美女)の代名詞的存在(銀幕女優の山本富士子など)がいたが、現在では価値観の多様化により美人の代名詞と言えるような人物はいなくなっている。

美人という言葉は内面を指すこともあるが、一般には外見の判断であることが多い。ミス・コンテストなど、美人を基準にした社会での女性の扱いについては、フェミニストなどから問題提起されることもある。


…とある。


現代において、『美人』の希少性というのは薄れてきているのかもしれない。

女性が総じて“美人化”を辿るのはけっこうなことだと思うのだが・・・・・・。

では果たして、何をもって『美女』、『美人』というのか。

結局のところ、男女問わず女性を見て、その人が不特定多数に対して「美しい」と思わせるのであれば、それが『美女』、『美人』であり、むしろそれに他ならず、そしてそれ以外に言いようがないということになるのかもしれない。

あとはすべからく“好みの問題”ということになるのだろうか。


お・し・ま・い


■参考記事
『ミス・コンテスト』(全2話)
『習慣』
『昨日は何の日?』



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