「九州文化塾」というものを受けたことがあります。
ここでは、国内の各分野の著名人の講演が、年間10回行われます。
私が受講した年も、講師は、瀬戸内寂聴氏、茂木健一氏など…そうそうたるメンバーでした。
その中で今も忘れられないのが、女優、小山明子氏の姿…
登場するなり、私は目に涙が溢れるほど、心を動かされてしまったのです。
有名な作家の着物を着て、女優さんですから、それはそれは美しいです。
でも私が心打たれたのは、姿に小山明子氏の「心意気」がすべてあらわれているかのように凛として美しく、何より愛に満ちていたからでした。
ご存知のとおり、小山明子氏は、映画監督「故、大島渚氏」の奥さまでもあります。
講演時、大島監督はまだ存命でした。
そして小山明子氏は、渡航先のロンドンで脳溢血で倒れた大島監督のその後の、壮絶な介護のただ中にありました。
女優業から退き、自分のことは一切構わず、夫に尽くして病院通いする日々には…
同じく患者さんの家族から、
「おばあちゃん、見て!見て!あの人、大島渚よ!」、と。
そう、声をかけられたこともあったそうです。
度重なる困難にも、「やってやろうじゃないの!やるっきゃない!」と乗り切り、最悪の状況でもそこに感謝を見る。
映画製作の莫大な借金や、介護うつにも見舞われ、そこからも乗り越えました。
下の世話をするたびに、「生きてることが素晴らしい」と思い、夫のプライドを気遣って、楽しい会話をしながら毎回乗り越える。
それを、「愛があるからじゃなく、人間としてあたりまえのこと」と言い切っていました。
お水を飲ませる時は、口移し。
で、「ひとくち500円よ」なぁんて言うのだそうです。
息子さんから「ぼったくりバーじゃないか」と言われても、「いいのよ!それくらい楽しくやらないと!」…と。
お孫さんにとっては、大島渚監督は、映画監督でもなんでもなく、ただ「寝てる人」。
だから小山明子氏は、お年玉などを包む時、表書きに必ず「じいじ」と記し、渡していたのだそうです。
夫の存在を、どこまでも尊敬してました。
出かけた時は、夫の食事やさまざまな世話のため、すぐに帰らなくてはなりません。
でもその時、「待ってくれる人がいる幸せ」をいつも思ったのだそうです。
そもそも最初にロンドンで倒れた時、「生きて私のところに帰って来てくれた!」と、そう思ったのだそうです。
彼女の軸には、キリスト教の司祭であり上智大学で長く教鞭をとった、アルフォンス・デーケンの「死の哲学」がありました。
「良く生き、良く笑い、良く死ぬ」
どんな状況でも笑えるのは、それはユーモアに支えられているから。
そのユーモアとは、「楽しいから、笑う」というものではなく、「苦しい、にもかかわらず、笑う」という、相手への思いやりなのです。
そして、「私は、どうして介護ばかりして、何も出来なくて…」とは思ったことはなく、「今は、なんて幸せ!」と。
だから、往年の大女優が、介護疲れも加齢の跡も隠さずスッピンで、「おばあちゃん」と言われながら病院通い出来たのでしょう。
「介護も女優も、真剣勝負」とも言っていました。
お話を聞きながら、もう、打ちのめされるように感動して…
それは2000人ほどの客席すべての空気がそうでした。
どんな最先端の専門分野の話を聞く時よりも、深い感動に包まれていました。
女優小山明子、いえ、人間小山明子として壇上に立った時から…
そこから話し始めるすべての内容をその身が携え、この上ない美しさをたたえて登場していたのでしょう。
ここでは、国内の各分野の著名人の講演が、年間10回行われます。
私が受講した年も、講師は、瀬戸内寂聴氏、茂木健一氏など…そうそうたるメンバーでした。
その中で今も忘れられないのが、女優、小山明子氏の姿…
登場するなり、私は目に涙が溢れるほど、心を動かされてしまったのです。
有名な作家の着物を着て、女優さんですから、それはそれは美しいです。
でも私が心打たれたのは、姿に小山明子氏の「心意気」がすべてあらわれているかのように凛として美しく、何より愛に満ちていたからでした。
ご存知のとおり、小山明子氏は、映画監督「故、大島渚氏」の奥さまでもあります。
講演時、大島監督はまだ存命でした。
そして小山明子氏は、渡航先のロンドンで脳溢血で倒れた大島監督のその後の、壮絶な介護のただ中にありました。
女優業から退き、自分のことは一切構わず、夫に尽くして病院通いする日々には…
同じく患者さんの家族から、
「おばあちゃん、見て!見て!あの人、大島渚よ!」、と。
そう、声をかけられたこともあったそうです。
度重なる困難にも、「やってやろうじゃないの!やるっきゃない!」と乗り切り、最悪の状況でもそこに感謝を見る。
映画製作の莫大な借金や、介護うつにも見舞われ、そこからも乗り越えました。
下の世話をするたびに、「生きてることが素晴らしい」と思い、夫のプライドを気遣って、楽しい会話をしながら毎回乗り越える。
それを、「愛があるからじゃなく、人間としてあたりまえのこと」と言い切っていました。
お水を飲ませる時は、口移し。
で、「ひとくち500円よ」なぁんて言うのだそうです。
息子さんから「ぼったくりバーじゃないか」と言われても、「いいのよ!それくらい楽しくやらないと!」…と。
お孫さんにとっては、大島渚監督は、映画監督でもなんでもなく、ただ「寝てる人」。
だから小山明子氏は、お年玉などを包む時、表書きに必ず「じいじ」と記し、渡していたのだそうです。
夫の存在を、どこまでも尊敬してました。
出かけた時は、夫の食事やさまざまな世話のため、すぐに帰らなくてはなりません。
でもその時、「待ってくれる人がいる幸せ」をいつも思ったのだそうです。
そもそも最初にロンドンで倒れた時、「生きて私のところに帰って来てくれた!」と、そう思ったのだそうです。
彼女の軸には、キリスト教の司祭であり上智大学で長く教鞭をとった、アルフォンス・デーケンの「死の哲学」がありました。
「良く生き、良く笑い、良く死ぬ」
どんな状況でも笑えるのは、それはユーモアに支えられているから。
そのユーモアとは、「楽しいから、笑う」というものではなく、「苦しい、にもかかわらず、笑う」という、相手への思いやりなのです。
そして、「私は、どうして介護ばかりして、何も出来なくて…」とは思ったことはなく、「今は、なんて幸せ!」と。
だから、往年の大女優が、介護疲れも加齢の跡も隠さずスッピンで、「おばあちゃん」と言われながら病院通い出来たのでしょう。
「介護も女優も、真剣勝負」とも言っていました。
お話を聞きながら、もう、打ちのめされるように感動して…
それは2000人ほどの客席すべての空気がそうでした。
どんな最先端の専門分野の話を聞く時よりも、深い感動に包まれていました。
女優小山明子、いえ、人間小山明子として壇上に立った時から…
そこから話し始めるすべての内容をその身が携え、この上ない美しさをたたえて登場していたのでしょう。