天満社の祭礼

 4月2日、宮山地区の春まつりが行われました。その様子を紹介します。

 

お囃子愛好会のお囃子、寄せ太鼓に続き、青海子供会の神輿練り歩きが行われました。

  

城山公園を出発し、青海町、宮山集落を練歩きました。

 

  

途中で、梅榮車保存会のお囃子と合流し、天満社へと向かいます。

 

  

宮山のお囃子愛好会のお囃子奉納が天満社で行われました。

 

  

大野梅榮車子供お囃子会のお囃子奉納が行われました。今年は、「梅榮車」の麾振り人が披露され好評でした。

 

  

天満社例大祭の神事が行われました。

 

  

青海子供会のゲームや、森川太鼓道場「常楽&Sin」の和太鼓演奏も披露されました。

 

  

来賓も参加し、餅投げも行われました。

 

 かつての祭礼の様子は、今日とは少し違いがあるようです。「常滑市まつり推進委員会」発行の「宮山の祭礼」より抜粋した資料を載せます。

神賑行事

 神賑行事とは神社が例祭の神事を執行するのに併せ、神様に奉納される行事で人々に賑しい雰囲気と祭り気分を醸し出すものである。宮山では獅子舞、山車、御馬頭、芝居、芸能大会と変遷したと思われる。

 神社本殿脇にある郷倉(ごんぐら)に大切に保存されている祭礼用具を見ると、獅子頭が二頭と獅子館(切破風の屋根に龍などの彫り物が乗る。)の館部分が残されており、お囃子の曲名にも「悪魔払い」「鈴の舞」などがありかつては獅子舞が奉納されていたと考えられる。しかし伝承・書付等は何も残っていない。(知多地方では正月や盆に獅子頭を持ち、各家庭を廻り息災を祈念し祝儀を頂くという行事が各地で行われていた。)

 又、馬道具も残されており昭和の初め頃までは行われてきた。道具は三揃えあり、飾り馬は幣馬(へんま)、桜馬、柳馬の三頭が立つのが本来であるが調達の関係上幣馬、桜馬の二頭の献馬が常であった。献馬は馬の塔、御馬頭(オマント、オマントウ)と言われ尾張、西三河に広く行われていて大野谷周辺ほとんどの地区で現在も行われ、休止中の地区でも多くの道具が残されている。近隣の村々で特に隣村とは競争意識があり、もめることは無かったがよく張り合ったと言う。

 献馬が行われなくなった頃からは境内に舞台を組み矢田(矢田万歳)や多屋、寺本(尾張万歳)の方から劇団を頼んで芝居を掛けたり、半田板山の獅子舞を招いたりした後、青年会主催の演芸会へと移り、村の若衆による芝居(活劇・チャンバラ)や唄、踊りなどが盛大に催されるようになっていった。今も郷倉に舞台や水引幕、大道具など現存している。しかし昭和二十九年を最後に青年会も無くなり、これらの行事は行なわれなくなっていった。

 お神楽の奉納は昭和三十五年までは行われてきたが、三十六年以降途絶えてしまった後、四十年頃有志により、祭礼日にお囃子も聞えないのは寂しいとお囃子をテープに収録し祭礼当日は有線放送でそれを流して神事のみを執り行っていた。その後六十一年に宮山お囃子保存会が組織され、道行きとお神楽の奉納が復活し現在に至っている。

宮山の祭礼

 例祭は元旦祭として青海山の七本松で初日の出を待ち、御来光と共にお神楽をあげた。西之口へも聞えるようにと行ったと言う。(天満社には富士社が合祀されており富士信仰のなごりと思われる。)

 大祭は四月十日に行われ早朝より青海山の七本松で新参により、祭礼の触れ太鼓として「寄せ太鼓」が叩かれる。午前中は祝い込みで二級さんは大きな大太鼓、一級さんは一回り小さな大太鼓を担ぎ二組に分かれて各戸を廻りお神楽で門付けをして祝儀を頂いた。これが祭礼の資金とされた。昼から宿元を出て天神さんへと向う。行列は露払いとして二級さんが先頭に二名提灯を下げ、その後に新参の年長が高張り提灯(前高張り)を一対持つ、その後に笛、大太鼓(二級さんが担ぐ)、小太鼓(新参が持つ)が続き、もう一対高張り提灯(後高張り)がつく。幹事、幹事長はその名の入った提灯を下げその後に続く。天神さんに着くとお神楽を奉納し行事を執り行う。(かつては佐治山へと向きを替えお神楽の奉納をした。)神社本殿では神事が行なわれるのだが、戦前までは宮司により太々神楽が行なわれ、小倉や矢田の方より巫女を召喚し巫女舞と、男面・女面を付けた神楽舞が奉納されたと言う。次に八幡社へ向いお神楽を奉納し宿元へと戻って行く。あくる日は山おろしと呼び、後片付けと慰労会が行われるが、よく無礼講となり度々大喧嘩になることもあったと言う。

 天神さんが済んだ後の日曜日に行われる佐治神社(宮山城址)の佐治祭も同様で近年はこちらの方が盛大になって来ていて、かつて一色・佐治両氏が在城した宮山城(大野城)の在った頃の宮山を思い起こさせるものだと言う。この日は清閑寺において大般若経転読会(通称大般若)が行なわれ佐治一族の末裔が集まり佐治家の菩提を弔う。佐治神社にお神楽が奉納され、子供会手作りのお神輿が3基(現在1基)出て練り歩く。

 六月二十日過ぎの日曜日には農上がりが行われ、かつては天神さん同様盛大であったと言う。また、この日は津島祭りと八幡さん、オンカ送りも兼ねていて、お神楽の奉納も先に八幡社で天神さんを後に行う。また、行列の最後尾に二組の笹提灯の行列を伴う笹神楽を行なった。

 他にも現在は一月二日の厄歳祓いの時厄歳による餅投げの後、宿下がりに御神楽を演奏したり、青海地区で三月に行われる青海公民館まつりに参加してお囃子の披露を行ったる、八月の盆踊りにも笹神楽を行い御神楽を披露している。

宮山のお喋子

 宮山のお囃子は十八曲あり、「寄せ太鼓」は新参用、上級用の二種。道行には「行き囃子」「祇園囃子」(「崩し」もあり)「打ち込み」「八幡行き」「戻り囃子」「雷」の七曲。お神楽には「悪魔払い」「早神楽」「唐子唄」「舞神楽」「おひねりと」「神車」「さるねつわ」「宮神楽」「鈴の舞」の九曲。

 これらはそれぞれ使われるところが決まっており、「寄せ太鼓」は夜囃子がある時は新参が宿元で叩くと銘々が参集してくる。新参が揃うと二級さんが上級用を叩く、そうすると二級さん、一級さんの順で集まるとのことである。また、祭礼当日は青海山で触れ太鼓として新参が行う。「行き囃子」は宿元を出発し神社へと向う曲。「祇園囃子」は神社入り口より大幟の前まで、また、帰りでは宿元の手前より門前までの曲。(現在は帰りのみに使用する)「打ち込み」は大幟の前で三切り(みきり。三回繰り返す事。)行う曲。お神楽は神社拝殿への奉納、または、祝い込みで各戸へ門付けしたり、宿元などに打ち込むときに使う曲。必ず一曲目は「悪魔払い」と決まっていて他に三四曲を行なう。(二回繰り返す事=折り返し。)また、「鈴の舞」を必ず最後に行なう。他の決め事は八幡社前では「宮神楽」を入れる祝い込みでは「早神楽」を行うなどである。「八幡行き」は八幡社へ向う曲。「戻り囃子」は神社から宿元へと帰る時の曲。

 お囃子に使われる笛は常尺笛と呼ばれる勇み用の細い物。小太鼓は白皮の締め太鼓でバイは細長いものを使う。このバイは上級より言い付けられた新参が山へ行き樫の木を切りそれを削って作った物。長胴大太鼓は大きい物と少し小さい物がありバイも細長く先が丸い物。

 また、郷倉にはかつて使われていた大太鼓の胴が二個、獅子太鼓と思われる長胴小太鼓が一個保管されていて太鼓の胴にはそれぞれ“安政四歳丁巳正月下旬 尾州名古屋押切住御用御太鼓所 平野小市郎”“天保一二年六月 尾州名古屋押切住 御用御太鼓所 平野小市郎 尺三寸”“昭和二十九年三月 藤堂太郎”の墨書きがされている。