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面をかぶって変身-蘭陵王の共演-
雅楽(尾張みやび会)とからくり人形戯(尾張大野梅榮車保存会)

1 【雅楽】『蘭陵王』の由来
 北斉の兵士たちは、芒山の戦いの立役者蘭陵王長恭の勝利と勇姿を称え、『蘭陵王入陣曲(曲というのは、もともと劇のこと)』という楽曲を作りました。主人公の武人の舞らしい勇壮さの中に、絶世の美貌で知られた蘭陵王を偲ばせる優雅さを併せ持っています。
 唐代には「その美貌が兵卒たちの士気を下げることを恐れ、常に仮面をつけて戦場に立った」という、現在知られている伝説が生まれました。
 蘭陵王入陣曲は唐の時代には散楽となり、唐招提寺の僧・仏哲(ぶってつ)が伝えた曲の一つといわれています。現在でも雅楽の『蘭陵王』として愛され演じ続けられています。「陵王(りょうおう)」とも呼ばれます。 ちなみに、現行の舞は、奈良時代に尾張浜主(おわりのはまぬし)が改作したものだという伝承もあります。管絃演奏時には蘭陵王、舞楽演奏時には陵王と表します。舞楽の中ではよく演じられる曲で、厳島神社のものが有名です。

厳島神社
厳島神社
 男性がこの舞を舞うときは伝説に則して竜頭を模した仮面を用いますが、女性や子供が舞う場合は優しい顔立ちであった高長恭になぞらえてか化粧を施しただけの素顔で舞うこともあります。
雅楽面1   雅楽面2
芸能舞台で使用される面(尾張みやび会)

【装 束】
雅楽陵王
尾張みやび会の発表会から
  身につけている衣裳は、左方裲襠(りょうとう)装束といいます。 裲襠には前後に龍の刺繍が二つ施してあります。また、裲襠と袴は散雲模様です。緋色の総絹地に紗地に窠紋の手刺繍をした袍を用い、その上に毛縁の裲襠 (りょうとう)と呼ばれる袖の無い貫頭衣を着装し、金帯を締め、きらびやかに見えます。これが左方(唐楽)の装束の特徴です。
 龍頭を模した舞楽面を着け、金色の桴(ばち/細い棒のこと)を携えます。
 女性や少年少女が舞う場合もあり、その場合は、舞楽面を着けずに桜の挿頭花を挿した前天冠を着け、歌舞伎舞踊と同様の舞台化粧をする場合があります。


【舞振り】
一人舞
  左方(唐楽)に属する壱越調(いちこつちょう)の一人舞で、華麗に装飾された仮面を被る勇壮華麗な走り舞です。答舞は納曽利(なそり)。この舞楽は、入場・当曲・退場とういう形式で構成されています。入場は、舞台に出ることから、「出手(でるて)」と呼び、逆に退場は「入手(いるて)」と呼びます。


2 【梅榮車からくり人形】
人形戯   面覆人形
大野祭りから(尾張大野梅榮車保存会)
  からくり人形は、前棚で曳行路を清め祓う「麾振唐子」、最後部の大将座に鎮座する「渡唐天神」、その前で優雅に笛を奏でる「横笛童子」、笛の音に合わせて舞う「面覆童子」の4体で構成されています。面覆童子は、人形の胸の中に隠されている面が、下から糸を引くことにより、首のバネを中心に一瞬にして出てきて顔につき蘭陵王に変身する糸からくり人形です。舞楽「蘭陵王」を舞う光景を表現した内容となっています。
梅榮面1   梅榮面2
梅榮車の面(蘭陵王)と面を覆った人形

3 【史実】蘭陵王
  『北斉書』『隋書』『旧唐書』などの史書に見える蘭陵王は、本名・高長恭。北斉の文襄帝の四男として生まれました。
  魏晋南北朝時代末期(6世紀)、北斉の河清三年(564年)、北斉と北周の境目にある洛陽城が北周の軍に攻められ、包囲されてしまいます。武成帝は北斉の名将・斛律光とともに、蘭陵王を洛陽の救援に向かわせましたが、中々北周の軍を崩すことはできません。そこで、知将・段韶が洛陽に到着、彼の策により、北周の軍を三方から叩こう、ということになり、蘭陵王は中軍五百を預かります。これにより、北斉軍は好転、中軍を率いている蘭陵王は正面から北周軍に激突し、これを破ります〈芒山の戦い〉。
  蘭陵王は真っ先に洛陽城の一部・金庸城の下に辿り着きますが、防戦に精一杯な城内の兵は辿り着いた軍がどこの軍が判別しません。そこで、蘭陵王は兜を脱いで素顔をさらしたところ(当時、将兵は戦闘時に兜とともに鉄の仮面をつけ、頭と顔を防御していました)、味方であること知った守備兵たちは弩を下ろして開門し、このことにより北周に勝利したといわれます。