第3回文化講座「黒鍬街道と久米」の中で、久米村に伝わる昔話が紙芝居で紹介されました。

$大野谷文化圏のブログ-鋳物師1   $大野谷文化圏のブログ-鋳物師2
 お話は、「久米村鋳物師」です。 
 むかし、といっても江戸時代、お上の許可なくしては勝手に職業を選ぶことができなかったころに、鉄と銅をとかして鋳型に流し込み、鐘や燈籠をつくる鋳物師は、尾張藩では名古屋の水野太郎左衛門一家に限られていました。しかし、その水野太郎左衛門ですら一目置いていた鋳物師が久米村に住んでいたのです。その人は、片山武兵衛といって、その遠い祖先が、朝廷より鋳物師の勅許を得ていたというゆいしょのある家柄でした。

$大野谷文化圏のブログ-鋳物師3   $大野谷文化圏のブログ-鋳物師4
 武兵衛の祖先は、平安時代には大津に住んでいました。ちょうど近衛天皇の御代のことです。鵺という怪物が夜な夜な宮中に現れては、病気の天皇を悩ましたことがありました。そこで天皇は、源頼政というさむらいに命じて、鵺を退治させようとなさいました。
 さて、夜になって鵺の現れるころには、宮中の庭に数多くの金燈籠を並べて燈をともし、昼のように明るくしておいて、頼政は、弓矢を持って鵺の現れるのを待ち構えていました。

$大野谷文化圏のブログ-鋳物師5   $大野谷文化圏のブログ-鋳物師6
 やがて、草木も眠る丑満時、にわかに冷たい風が吹き起こって、多くの金燈籠の燈をつぎつぎに吹き消していきました。しかし、武兵衛の先祖の作った金燈籠だけは、ゆらぎもしないであかあかと輝き、紫宸殿の上に現れた鵺の姿をはっきりと照らし出しました。
 待ち構えていた頼政は、弓に矢をつがえるとすかさず鵺をめがけて弓矢を放ちました。

$大野谷文化圏のブログ-鋳物師7   $大野谷文化圏のブログ-鋳物師8
 頼政の矢で鵺が退治されてからは、天皇の病気もよくなり、優れた鋳物師として武兵衛の先祖には、以後子孫代々にわたって日本国中どこで鋳物師を営んでもよいという書きつけをたまわりました。
 その後、いつのころからか、武兵衛の先祖は久米村に移り住み、代々久米村で鋳物師を営むようになりました。現在、久米の盛泉寺にある薬師堂の鰐口は、この久米村鋳物師片山武兵衛の作になるものです。