私がIT系エンジニアからコーチやカウンセラーとして
なぜ関わっていく事になったのか、
その軌跡をちょっとだけ「私の履歴書」風にまとめてお伝えします。
まずは概略として、ここだけ読めば判る、というショートストーリーをシェアします。
<幼少期>
1962年10月9日に東京都江戸川区の病院で出生。
長男であった。
祖母、父と母、その三人暮らしの家は、昭和の家庭そのもので、
家の前にはふたがされていない道路側溝があった。俗に言うドブというやつだ。昭和世代でないと判らないですよね。
夏はやぶ蚊が出て、蚊帳と蚊取り線香は必需アイテムだが。
一番幼い記憶は幼稚園の頃で、小児喘息のためによく近所の小児科に通っていた。
しかも、年中さんの時は半年も入院したように、身体は弱かった。
今でも身体は頑丈な方ではない。(ホントですよ!)
<少年期>
小学校は地元の小学校を分校にしたかのようで、新設された第二小学校の第一回入学生となり、
真新しい校舎に感動を覚えたものだ。
中学校は自宅から徒歩30分の地元でもやや歴史のある学校で、在学中に創立三十周年記念式典があった事を覚えている。
高校は、都立高校に進学、当時は群制度というグループがあったので、単独校を志望、偶然にも新設された高校があったので、そこに一期生として入学。受験番号の128番はいまだに覚えている。もちろん、卒業も一期生。
大学は総合大学を志望し、日本大学に合格。吹奏楽研究会に所属し、夏の演奏旅行をはじめ、年に何回もの依頼演奏に出演、とにかく楽しい思い出しか残っていない生活をしていた。
<社会人として>
卒業して、東証一部に指定替えになったCSK(コンピュータサービス株式会社)に入社、本社16階にてシステム開発に約10年従事した後、大手商事会社のIT系会社に転職、そこで約4年マネジメントを学び、外資系コンサルティング会社に転じた。
しかし、英語は中学生の頃から不得意であったため、最終面接官も困っていた事を思い出す。そんな私が、後になって日本地域の代表として、アジアパシフィック地域でのWEB戦略会議に参加するなんて誰も想像つかなかっただろう。もっとも、私は全て日本語と身ぶり手ぶりで乗り越えたが、英語が堪能な仲間がしっかりと語学面をサポートしてくれた事は忘れてはいない。
そのコンサル会社が某巨大なIT企業の傘下に入り、約3年はWEB戦略に携わっていたが、娘が大病を患った事もあって退職。1年間、娘の闘病サポートのみを生活を続けていた。実はこの期間のビジネス動向などは、一切頭に入ってこなかったため、その後の進路に多大な影響を与える一年になった。
<一回目の復活期>
一年後、ようやく娘も学校復帰ができた事をきっかけに私も社会復帰、当時は六本木ヒルズ内にオフィスを構えていた小さなコンサルティング会社に転職し、その翌年には環境関連事業で大きく成長していた会社に転じた。M&Aも手掛ける事ができ、社外取締役や、役員としての職責を担う事になり、次は上場というところに来て経営者判断で上場計画凍結が決まり、ストックオプションの夢が消えて意気消沈、やるべき事はやってきた満足感も小さいながらにあったので、会社に属して働くという選択肢をここで打ち切りとした。2008年の事であった。
<カウンセリングとの出会い期>
そんなタイミングで出会ったのがカウンセリングであり、その場で偶然に出会ったのが堀江信弘氏であった。この時から、カウンセリングやコーチングという、心理的な要素の多くある分野を学び出し、産業カウンセラー資格も一発合格となった。
<IT戻り期>
根っからの凝り性というか、専門家気質があるからなのか、一つの事に凝りだすと目の前に事に集中してしまう傾向が強く、今まで営業活動やマーケティング活動をやった経験が乏しい事もあり、さらにIT系仕事の未練も若干あったため、2016年から数社のIT支援業務を行っている。
<今後の展望>
しかし、二足の草鞋状態は心地よいものではなく、2020年のオリンピックイヤーをターゲットにして、業務を完全にシフトさせるため、2019年アメブロの再整理実施中。
<今現在のこっそり事情>
今現在は、公にはクライアント募集を行っていない。
しかし、現時点で数名のクライアントをていねいにカウンセリング、コーチング中。
女性が、誰にも言えなくて自分だけで抱えてしまっている深い悩みの解決を専門に、口コミだけで年間約20件の依頼を、コツコツと対応している。
この度の再整理構築においては、恋愛カウンセラーを全面に出しているが、実は男女関係も幅広く、恋活から大人の恋愛事情、特殊な癖など、何かと幅広い対応を行っている。
テーマは「ゆるロジ」。これはゆるく、でもロジカルにしっかりと、という相反するような内容を合わせて行っている事を一言で示している。