既存メディアであるテレビや新聞ではほとんど報道されることはありませんが、インターネットの世界では、外国人による傍若無人な振る舞いをよく見かけるようになりました。本来は、日本人のために使われるべき税金が、優先して外国人のために使われたり、犯罪を犯しても不起訴となるような事例が後を絶たないようです。その一方で、既存の日本人にはたいへん大きな税金が課せられており、日本人の貧困化が急速に進んでいるようにも思われます。いま、われわれは、日本が日本でなくなる現実を目の当たりにしているのかも知れません。

 

つい最近、幻冬舎から出版された、柴田哲孝(しばた てつたか)氏が書いた、フィクション小説「暗殺」を読みました。言葉を失うほどの内容でしたが、わたしが、いちばん、衝撃を受けたのは、物語が始まって、早々に出て来る、次の部分です。「まあ、“あの男”も、元はと言えば、“向こう側”の人間ですから。」

 

わたしは、けっして国粋主義者などではありませんが、オリンピックで日の丸が掲げられ、君が代を聞くと、涙が溢れ出てしまう様な人間です。なぜ、このような感情が沸き出てしまうのかは、まったく分かりませんが、もしかしたら、それは、わたしが日本人なのだから、なのかも知れません。ちょっと、恥ずかしすぎて、日本を愛している、などと言ったりすることは出来ないのですが、そんなわたしでも、日々日本が失われていくのを感じています。

 

そして、日々の暮らしの中で、私の中に、ある大きな疑念が浮上しています。それは、はたして、この日本の長い歴史の中で、所謂、日本人と呼ばれるひとたちが、政治や経済を主導していた時代というのは、かつて存在したことはあったのだろうか、という疑問です。日本と日本人を応援する者の一人として、そのような、時代が存在して欲しかった、と願うのですが、その様な時代は、本当にあったのでしょうか。

 

日本は、いまや、大陸や半島と深い関係や繋がりを持つ政治や資本によって、支配されている、というのは、どうやら紛れもない事実の様ですが、それは、はたして最近に限られた出来事なのでしょうか。インターネットの力によって、たまたま顕在化しているだけで、もっと、昔からあった事なのではないでしょうか。日本人には、そもそも、大勢の人々を統率するような才覚はなく、人々を率いる役割は、少数の優秀な少数民族が担ってきた、という仮説は成り立ちえないのでしょうか。

 

それを知ったところで、どうなるものでもありませんが、小説「暗殺」を読んでから、わたしのなかで、このような感情が渦巻いています。

 

【上皇 明仁(あきひと)様 お言葉】

私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々、招聘されるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。

 

https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html

 

【桓武天皇】

桓武天皇(かんむてんのう、737年 - 806年)は、日本の第50代天皇で、在位期間は781年から806年までです。桓武天皇は、日本の歴史において重要な改革を行ったことで知られています。以下は桓武天皇についての主要な情報です。即位と背景:桓武天皇は、天智天皇の曾孫にあたる光仁天皇の皇子として生まれました。781年に即位し、それまでの奈良時代に終わりを告げる形で新しい時代を開きました。平安遷都:桓武天皇は794年に平安京(現在の京都)に遷都しました。これが平安時代の始まりです。平安京への遷都は、政治的・軍事的な理由から行われ、奈良の大和朝廷からの権力集中を図るものでした。政治改革:桓武天皇は中央集権化を推進し、地方の豪族や貴族の力を抑え、天皇を中心とする政治体制を強化しました。彼はまた、税制改革や土地制度の整備を行い、国家の財政基盤を強化しました。征夷大将軍:桓武天皇は東北地方の蝦夷(えみし)に対する征伐を行い、征夷大将軍を任命しました。坂上田村麻呂がその役職を務め、蝦夷討伐に従事しました。宗教政策:桓武天皇は仏教と神道の調和を図り、両者の共存を推進しました。彼はまた、仏教寺院の影響力を制限し、政治への干渉を防ぐための政策も実施しました。桓武天皇の統治期間は、政治的・社会的な変革が行われた重要な時期であり、平安時代の基盤を築いたとされています。

 

【武寧王】

武寧王(ぶねいおう、462年 - 523年)は、古代朝鮮半島の百済の第25代王です。彼の治世は502年から523年まで続きました。武寧王は、百済が中国や日本との交流を深め、文化や技術の発展に寄与した時代の王として知られています。以下は武寧王についての主要な情報です。背景と即位: 武寧王は、先代の東城王(とうじょうおう)の息子として生まれました。502年に東城王が崩御した後、武寧王が即位しました。政治と軍事:武寧王は百済の中央集権化を進め、国内の安定を図りました。 彼は新羅や高句麗との戦争を繰り返し、領土の拡大を目指しましたが、その一方でこれらの国々との外交関係も重視しました。外交と文化交流:武寧王は中国の梁(りょう)との関係を深め、中国からの文化や技術を取り入れました。日本との交流も盛んに行い、多くの使節を派遣しました。武寧王の時代に百済から日本に渡った技術者や学者は、日本の文化や技術の発展に大きく貢献しました。武寧王陵:武寧王の墓(武寧王陵)は1971年に韓国の忠清南道公州市で発見されました。この墓からは多くの遺物が出土し、百済の文化や武寧王の時代の詳細が明らかになりました。特に、「百済武寧王之墓」と刻まれた金石文が発見され、武寧王の存在とその功績が裏付けられました。武寧王の影響:武寧王の治世は、百済が文化的・経済的に発展した時代であり、彼の政策は後の百済の繁栄に大きな影響を与えました。彼の外交政策は、百済が朝鮮半島だけでなく、東アジア全体においても重要な役割を果たす基盤を築きました。武寧王は百済の歴史において重要な人物であり、その治世は百済の文化と政治の発展に大きく寄与しました。