Wさんと何気ない雑談をしていたときのこと。

Wさんは、あるイベントに関わる予定があったそうです。

主催者ではないけれど、その場に参加する流れの中にいた、と。


そのイベントの内容は、沖縄で起きた米兵による事件。

表に出ていないものも含め、1000件以上あると言われている出来事を、ひとつひとつ拾い上げ、冊子にまとめた方がいて。

それをもとに発表し、さらに元ストリッパーの方がパフォーマンスとして表現するというものでした。


けれど、その出来事の当事者たちは、開催の中止を求めていた。

それでも主催者は実行したそうです。


当然、当事者の方々が怒りを覚えたのは想像に難くありません。


傷ついた人がいる。

その傷に触れるどころか、さらに抉るようなことが起きてしまった。


その結果、謝罪を求める声が上がり、Facebook上には謝罪のためのグループも立ち上がったそうです。

Wさんもそこに参加し、言葉を考え続けていると話していました。


けれど、2ヶ月以上、状況は平行線のまま。


私はその話を聞いたとき、

これは簡単には終わらないだろうな、と感じました。


そもそも、なぜその出来事は表に出てこなかったのか。


それはきっと、当事者の方々が「出さない」という選択をしてきたから。

思い出したくもない記憶を、何度も掘り返される苦しさ。

調査という名のもとに、心の奥まで踏み込まれることへの恐れ。


それらを避けるために、静かに抱えてきたものだったのではないかと、私は思っています。


それを、当事者ではない誰かが

「これはみんなが知るべきだ」と掲げて表に出す。

沖縄だけの問題ではない、共有すべき現実だと。


その想い自体に、何かしらの意図や信念はあったのかもしれません。

けれど、それが本当に必要なことだったのか。


私は、してはいけない一線を越えてしまったのではないかと感じました。

謝罪文も読みました。


けれど、そこに「ごめんなさい」は見えなかった。

代わりに感じたのは、説明や正当化の響き。


中でも「正義」という言葉が、心に引っかかりました。


この出来事を広めることが正義なのか。

誰かの声を代弁することが正義なのか。


もしも

「あなたが言えないなら、私が言ってあげる」

そんな気持ちがそこにあったとしたら。


表現の自由は、とても大切なものです。

けれど、それは何をしてもいい理由にはならない。


誰かの声を無視してまで成り立つ表現は、

私にはどうしても美しいものには思えません。


私は音楽で表現する人間です。

だからこそ、強く感じます。


これは表現ではなく、エゴに近いものだったのではないかと。

どんなに言葉を尽くしても、

届かないものがある。


どんなに謝っても、

許されないことがある。


それはきっと、「正しさ」の問題ではなく、

触れてはいけない痛みに触れてしまったから。

ただ、静かに願っています。

当事者の方々の心が、少しでも穏やかに戻っていくことを