2-2 時 | のこしたいもの

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人は現在に生きていますが、決して過去に生きて過去に意識を置くことはありません。物・生物にとって「時」は現在まで経験してきたことを振り返り、未来に変化を予測するために不可欠なものですが、過去を忠実に再現し実感することは出来ません。

生物は生まれた時が一生の始まりで、体の成長が上限に達した後は寿命が尽きるまで体は衰え続け、死ぬと死骸という物になります。死は体が動かない死体になる時であり、生物から物に還ってゆく分岐点でもあると思います。

 

一方、生物の動き・行動に表現される心は、時と場所にとらわれない可逆的なものです。死なない限り、心は時々の体の動きに表現されています。
人の思いは、まとまっていなければ他人に影響力を持たない言葉の羅列にすぎません。思いが時を経てまとまった時、意味を持ったものとなります。そういう思いが外部に表明された時が始点となって、不可逆なものになるのでしょう。
実体のない思想・芸術のようなものは、外部に表明されるまでは可逆的でどのようにも変化できます。それらが外に表明された時、始点となって人々に認知され、不可逆なものになります。

現実世界での不可逆な「時」の流れの一瞬に、思いが外に表明された時、不可逆なの思いの始点にもなります。

 

我々が、何気なく使っている心という言葉は、脳のような、思いを紡ぎ出す器官をもつ動物だけについて当てはまります。彼らは心の命令に従って自分に適した方法で生きています。彼ら以外の生物は気(全生物の心の核になっているもの)に直接動かされているように思います。

 

人類以外の生物は38億年間にわたって「食い殺されないで寿命を迎える」ことを、唯一の目的にした生き方をしてきました。彼らの生活の一瞬一瞬は、生きるか死ぬか・思いどおりに動けるか動けなくなるか、に直結しています。それは将来も変わらないでしょう。
反面そういった生き方は、捕食競争を勝ち抜いて「動き続け、生き続ける」という目的達成だけなのだから単純にも思えます。

 

農耕牧畜を始めて以来、人類は食われることなく食料を自前で作り出すようになり、生業の数だけ生き方が出来るようになりました。でも、その生き方を実行するにはお金が不可欠です。生き方がたくさんできても、お金がなければ食料にありつけません。人間の生き方は、お金の稼ぐ人生だ、と言われても納得せざるを得ません。
お金を得る方法が増えて生き方が増えると、人々の心も複雑・多様になりました。
生物の心が「どう生きるかを考えること」だとしたら、農耕牧畜への移行によって人類の心は飛躍的に複雑になったと思います。
 

物と生物を動かしているのが力であるのに対して「力」の向かう先を決めているのが気・心に相当します。
生物の動きは気の表現であり、体の動きには常に時がついてまわっています。日常生活での動きの積み重ねが体を成長させ気に働きかけ、それを受けて心は体を「どう動かすか」決めています。
全生物を思いのままに動かしているのは、生き続けるためです。体を動かしている気・心は生まれてから死ぬまでの時間を「どう生きるか」考えています。

 

「時・力・空間」は生物と物を支配しています。時と力は物・生物に備わっていますが空間はそうではありません。そして時は生物個体どうしでは作用しあいません。しかし、力は時と同じように各生物個体が持っていますが、相互に作用を及ぼし合っています。
殆どの植物や、無性生殖するような動物(細胞分裂して増える単細胞生物など)は、恐らく直接「気」の命令に従って生きています。それらの生物は子に与える栄養分も不要で、自分の成長のためだけに養分を取り込んでいるのでしょう。


生物には、心と行動に時間的なズレが殆どない場合があります。捕食行動の最中あるいは捕食されそうな時がそうであり、殴り合いのけんかをしている時の人間も同じです。そんな時、生物は何も考えていないのでしょうか。
そんなことはない。考えているが展開が早すぎて心が表面に出てこないだけのことで、どんな生物も同じだと思います。時は常に同じ速さで流れてゆきますが思いはそうではないようです。

 

動きは時の連続です。農耕牧畜を始めて生き方が増えた人類には、行動が思いを表現しない場合も出てきます。例えば、お金を稼ぐためには気の進まない職業に従事せざるを得ない場合とか、他人の面子を保つために思いと異なる行動をせざるを得ない場合などです。
そういう場合を含めて、心が行動に表れていない時があるにしても、殆どすべての生物は(気だけで動いている生物を除いて)心が紡ぎ出されているにしても、時は流れ続けています。

人類は、時代を経て社会が複雑になるにしたがって、時と心という言葉を使い分けざるを得なくなっていったように思えます。

 

個体と種」そして「時と時間」 物・生物が動き在り続けるとき、必ずついてまわるのが時と時間です。体が時を感じるのは生きている現在だけで生前・死後に時を感じることはできません。そして心は、言葉なり文字なりで表明されれば、その時点で不可逆になりますが、自分の中で思っている限り何度でもやり直せる可逆的なものです。

 

生物が死んで動かなくなると死骸という物になることは何を意味しているのでしょうか。「生物は物を起源として生まれ、死んだら物に還る」というのが一つの答ですが他にも答はあると思います。

物と生物について時間を軸にして考えてみると、生物が死後、死骸・死体という物になることのがもう一つ得られるように思います。
個人が死んでも人類が死滅しないのは、子孫を残して生きている自分以外の人間がいるからです。それは個体と種の関係でもあります。

生物個体の短い寿命を「時」と考え、子孫の誕生によって受け継がれる種の寿命を「時間」と考えてみるのです。そうすれば「個体と種」の関係は「時と時間」の関係と同じように考えられます。時がある限り時間は無くならないのです。
 

地球は太陽を中心にして太陽の周りを公転していますが、その原動力となっているのが太陽の引力です。そして宇宙には太陽系を成立させている【何か】があるように思います。
「生物」は「物」とは違い、死んでしまわないかぎり【何か】に逆らってでも自らの思いに従って動いています。

生物個体の一生(時)は種(時間)の一断面で、時と時間の関係とも考えられます。
不可逆な「時(個人の一生)」は動きについてまわり、子孫を残すことで種(時間)を保っています。

 

「時」なしに生物は生きることはできません。複雑で数多くの生き方をするようになった人類だけが心と時を使い分けざるを得なくなったように思います。様々な局面で自分の思いが定まっていないとき、言葉では思いを正しく表現できません。思いが定まって、然るべき時になるまで思いとは違う形で表現されるしかありません。

人類も狩猟採集生活を続けていれば生き方は単純で「食い殺されないで寿命を全うすること」だけが生きる目標だったでしょう。そうであれば気や心という言葉も不要で、他の生物と同様に「心」ではなく「時」が行動を決めていたと思います。

 

全生物を生き残らせるために、体を動かし続けさせているのが気・心です。生物ではない物にも気(全生物を動かしている心の核となっているもの)はあると思いますが、心(生物個体を動かしているもの)を紡ぎ出す器官を持っていません。従って物は、心ではなく、全宇宙を動かしている【何か】に動かされているように思います。

より普遍的に考えると心は人間が作り出した言葉にすぎないのですから、全生物についていう場合は気・心を「時」と置き代えた方が適切なのかもしれません。

 

 

時と時刻 「時」は時刻・時間と混同しがちですが、少し違うように思います。「時」は「空間・力」と同じように実体のない概念で、変化に不可欠なものです。でも、物の変化は「空間・力」だけでは起こりません。

今を生きる生物にとって時は不可逆な一瞬であり出発点であり過程であり終点でもありますが「時刻」についても同じようなことが言えます。時刻は、物事の区切りとなる時を示したものですが、特定の時(時刻)から不可逆になります。そこが時と時刻が混同される原因ではないかと思います。そして時刻は人間が作ったものです。
時刻は本来、物と生物によって違っている「時」の感覚を、ある一瞬から別の一瞬までの間隔を一定にして人の行動基準の一つにしたものです。
 

物・生物が動き変化するのに不可欠な「時」は、過去から未来に続く不可逆な現実世界の一瞬・一断面を表しています。同時に物が動き・変化する過程の一瞬でもあり、連続・積み重なって、はじめて物の外形と内面(心)は変化できます。
しかし時刻は本来、物と生物によって違っている「時」に対する感覚を、ある一瞬から別の一瞬までの間隔を一定にして人の行動基準の一つにしたものです。恐らく人類が農耕牧畜を開始して作ったものだと思います。

 

時 時間は異なる「時」と「時」の間隔であり、物の変化に必ずついてまわります。物が変化しない限り「時」は必要ではないのですが、現実には地球(物と生物)は変化し続け、我々の日常にはついて回っています。
日常生活で意味を持つのは大抵の場合、時間という事になりますが、ここでは時刻・時間とは別にして「時」について考えてゆきます。


たぶん、宇宙は誕生の時(?)から「星々」を作っている物(元素)が存在していて、一定の規則に従って変化し動いているのだと思います。動くからには連続した「時」を伴っているはずです。宇宙が「物(星々)」のない完全な無の空間だとしたら宇宙には「時」は必要ないことになります。ということは「物の集まり」である星々は、それぞれの「時」を持って変化していることになります。

無からは何も生じないことを前提にすると。

宇宙に星々が無かったなら現在も宇宙には何も存在しないはずなので、宇宙には最初から何らかの物があったと考えるのが自然です。

 

先に「存在」のところで書いたように、時間は無限の単位で設定出来ます。従って、後から入り込んでくる「物」にとっては自分が刻む「時」の間隔が短いか長いかの違いがあるだけにすぎません。
時は物の変化に必ず付いて回ります。化学変化にしても物理変化にしても変化は複数の物の間で生じ、決して人類つの元素だけで変化は生じません。
そして「時・時間」は「物の変化」の原因・結果に直接かかわる事はありません。時間は、「物やもの」が連続して変化する度合いを「連続する時の量」として表しているだけです。


実体のない「時」は全ての物に普遍性を持っています。
多分「時」が普遍性を持たないのは異次元世界にあるものなのでしょう。三次元空間に生きる我々が認識できる物だけが時を持っているように思います。

 

時は、空間を構成しているあらゆる物が静止した一瞬の状態です。静止した空間は同じ時間軸の一瞬として過去・現在・未来と連続していることになります。
時には、あらゆる方向に変化する全ての物が表れているはずですが、知覚・認識出来ないだけのことです。我々の知らない世界が数多くあってもおかしくはないように、我々の知らない異次元空間にも全く別な形で働く時間の概念があるのかも知れません。

 

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