第二次大戦を生き抜いた証人の声。 | C.I.L.

第二次大戦を生き抜いた証人の声。

先日書いた靖国問題に関する記事 に、このようなコメントを頂いた。




■今の日本

どうでも良いけど、日本をここまで持ち上げたのは命からがら各種の空襲を生き延びて戦後の焼け跡から必死こいて働いてきた人々であって、天皇でも新政府でも英霊でもないわけで。


そういった「まだ生きてる」人々は「高齢者邪魔」ってないがしろにして話も聞かないくせに、死んで何も言えない軍人ばっかり崇めるのはホント馬鹿馬鹿しい。



記事の要点からはちょっとズレてしまう意見なんだけど、内容はまことにその通りで、個人的にちょっと思うところがあった。


それは 「自分の祖父さん祖母さんから戦争の話やたわいのない昔話をもっと色々聞いておけばよかったな…」 という想い。


オレの父方の祖父さんは大正元年生まれで、母方の祖父さんも大正生まれ。父方の祖母さんはオレが産まれる前に亡くなってて、母方の祖母さんも3年ほど前に大往生なされた。


父方の祖父さんとは一緒に住んでいたこともあって、それなりに色々な話が出来たんだけど、田舎に住んでた母方の祖父さんや祖母さんとはほとんどマジメな話をしたことがなかったんだよね。


特に歴史学者だった母方の祖父さんにはもっともっと話を聞きたかった。

http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E6%BE%A4%E4%BF%8A%E5%90%89&hl=ja&rlz=1T4GFRC_jaJP205JP205&start=0&sa=N



この俊吉祖父ちゃんは、自身の住んでいた埼玉県行田市の風土史なんかを中心に本を書いたり大学で講義をしたりしていた人なんだけど、行田市にある忍城というお城の天守閣を再現して博物館を建てるという計画中に、工事現場で脳卒中で倒れて、そのまま50代の若さで亡くなってしまったんだな。


その時のオレはまだ小学生くらいの鼻水垂らしたガキで、マジメな歴史の話なんか出来るような脳味噌がなく、祖父ちゃんの知識の欠片の一つも吸収することが出来なかった。


せめてあと10年生きてくれていたら、オレも少しはまともな話が出来る知能レベルになってたんだけど…。


と、そんな後悔の念がズンズン腹に響いて来てしまったわけで。



特に今問題になっている戦中戦後の話についても、実際に生き抜いてきた人たちだったわけだし、祖父さん祖母さんっていう身近な人からもっともっとたくさんの知識を得たかったんだよ。


それが人の寿命の問題と、オレの脳味噌の発達の遅れのせいで台無しに…。



そんな手遅れ状態のオレではあるけど、断片的に戦時中の話を聞いた記憶はあって、それがどれもこれも面白おかしいんだよね。


祖父さんが2人とも最前線でドンパチやってた人じゃなかったというのもあるけど、なんというか戦争してるとは思えないほどほのぼのしてるというか。


父方の祖父さんの場合は通信兵としてシナに渡って、部隊の後ろの方でチクチクと機械を弄ってたらしく、「鉄砲支給されたけど撃ったことねえんだよ。重いし、持ってるだけでおっくうだし、そもそも皆の後ろくっ付いて歩き回ってただけだし。あと通信機の使い方も最後までよくわかんなかったなあ。」 という有様。


おまけに 「オレは身体弱くて重い物持てなくてさ、途中から同僚がオレの分まで重い荷物を持ってくれたんだよな。重かったから鉄砲もみんなに担いでもらってたわ。」 などとヌケヌケと言ってのける始末。


オレもオレで流石にこれじゃナニがアレだと思い、「祖父ちゃんの戦争の思い出で一番記憶に残ってるのってなに?」 と聞いてみたんだけど、その時の答えがまた凄かった。


「シナのな、飯が美味いんだ。あとアッチの唐辛子は本当に辛いな!現地の人間に配給品あげたりして仲良くなって、飯食わせてもらったり、普段オレの荷物持ってくれてる連中にもシナ料理をふるまってもらってお礼したりしてたんだけどさ、そこで食わされた唐辛子の辛さは凄かった。あれ以上辛い物は食ったことがないよ。それにしてもシナ人とも仲良くやってられたし、飯も美味かったし、戦争って意外といいもんだと思ったよ。死体も見たことないし。そしたら雲行きが怪しくなってきて撤退だとか言われちまってさあ。あの時は現地のヤツらと別れなきゃいけなくて悲しかったなあ。あのままシナに居たかったよ。今でも手紙書いたら届くかね?」


さすがオレのグランドファーザーである。何も返す言葉がない。巷で聞く戦争の話とは全くベクトルが違う。お前はいったい何をしに中国大陸に渡ったのかと。


死体見たことなくて、鉄砲撃ったこともなくて、挙句にその鉄砲も同僚に持ってもらうってお前。


それなんてオレ?


間違いなくオレはこの人の血を引いている。なんか確信できる。



で、母方の学者の祖父さんの方はもっと酷くて、どうも祖父さんも祖母さんも地元の良家の出らしく、妙なVIP待遇だったらしいのよね。


母方の祖父さんは最初は 「ボク医者になるから戦争したくない!」 と拒んだものの、見事に逃亡に失敗して訓練させられてたらしいんだが、運良く訓練中に身体を壊して入院することになり、病院でのんびりしてたら気がついたら戦争が終わってたとのこと。


おまけに新婚ホヤホヤだったらしくて、お嬢様育ちの祖母さんが愛する旦那のために愛妻弁当をこしらえて毎日のようにお見舞いに行ってたらしいんだな。


それも戦中の物資不足なんか大都市だけだったようで、行田界隈じゃ米も野菜もふんだんに有り余ってたらしく、「病室にいる方々も一緒にどうぞ」 と、でっかい豪華なお重を何段重ねにもして運び込んでたらしいんだよ。


そしたらそれが変に話題になってしまったようで、祖父さんの病室仲間だけじゃなく、しまいには同僚や上官まで 『大澤のお見舞い』 と称して集まって来ちゃって、「おい大澤!お前はどうせ戦争したって役に立たないから、いっそずっと入院してろ!で、嫁さんは次いつ来るんだ?」 とか言われてたらしい。


それでもう病室で飲めや歌えの大騒ぎですよ。若い頃の祖母さんってばケータリングサービスの配達係りみたいなもんですよ。


わが祖父ながら身体壊して入院してた人間のやることとは思えないんだが気のせいか?それで 「気がついたら戦争終わっちゃってた。」 ってお前。


「ずっと寝てりゃ良くてさ、毎日豪勢なご飯が食べれるしさ、あの時は太ったなあ。戦争も悪くないな。」 じゃねえよ!


で、戦争が終わった後も食料に困ったことなんか1度もなく、「ボク医者になる!」 と言ってたはずが、趣味が高じて地元の歴史とか埼玉県の苗字の分布とかをチクチク調べるようになり、気がついたら歴史学者と呼ばれる人間に。


ほんと故人には申し訳ないというか、あれだけ可愛がってもらった祖父さんに言う台詞じゃないが、「お前が歴史を語るな!」 と。


残念ながら、こういう話を総合して考えると、やはりオレは荒井家と大澤家の直系の子供らしい。どの角度から見ても疑いようがない。



当初はマジメに 「戦争を生き抜いた証人たちの声にこそ、もっと耳を傾けるべきだ!」 というトークをしようと思っていたのに、うちの祖父さんたちのせいでいつも通りのこんな電波テキストに…。



自分の血が憎い!




■最後の最後でマジメに追記

もし祖父さん祖母さんがまだご存命なら、今のうちに色々な話を聞いておくべきだよ。どうでもいい昔話でも、絶対に損になることはないよ。