懐中電灯を持って暗い道を歩き、ようやくたどり着いた。
京都の盆踊りと違って、大掛かりなものではなく、30人ほどがなんとなくついている明かりのところに集まって、なんとなく踊っているような不思議な空間だった。
音量もとても静かで、私が体験した盆踊りの中で、1番小さなものだったように感じた。
私はなんとなくその様子を外から眺めていた。
明かりに照らされて、人と人とが大騒ぎするわけではなく、ほどよく関わっている様子をぼんやりと見ていた。
しばらく見ていると、地元の人とそうではない人がいるように感じた。
そうではない人は、なんとなく動きがぎこちなかったり、言葉数が少なかったり、なぜなんだろうなぁと私は感じた。
ただそこにいる人たちが、灯りに照らされて、自然に関わっている様子が不思議であるとともに、暗闇の中にそこだけ照らし出されている。なんとなく心が温かくなるのを感じた。
ただ盆踊り大会と言うよりも、なんとなく集まってなんとなく終わり、そして別れ際に、「また来てくださいね」と地元の人に、そうでない人たちが、笑顔やうなずきや握手やと言うような様子で別れを惜しんでいるのがなんとなく気がかりだった。
母の実家に帰ってから、あれは一体何だったんだろう。心の中の疑問を叔父に尋ねてみた。
なぜあんな山奥で盆踊りがあるのかな?
集まっている人がとても少なくて、地元の人とそうでない人がいたような気がしたんだけど?
すると、叔父は
「あそこは障害のある人たちの施設なんだ。」
私「なぜあんな山奥に施設があるの?」
叔父の説明によると、あの人たちは生まれた家に住み続けることができず、施設で一生を終えることになってしまった。
私はなぜ生まれた家に住めないのかとても疑問に思ったので、さらに聞いてみた。
その家に障害のある人が生まれると様々な差別を受けることがある。そうならないように家の外に出ないようにしたりしている家もあるが、それも難しくなったら、遠く離れた山奥の施設に一生面倒見てもらえるように預けるんだ。
私
じゃぁ、あそこに住んでいる人たちは、学校とかどうしてたのかな?
学校にはいかせてもらえなかったんだよ。ずっと家に閉じ込められて大人になったら体も大きくなって世話ができないから、そういう理由もあって施設に入れられたんだ。
この話は私に大きな衝撃をもたらした。
身体障害でない障害のある人に会うことがほとんどなかったように思っていた私は、この施設で暮らす人たちの人生に思いを巡らした。
この施設で暮らすと言うのは、幸せなんだろうか?生まれたところにもう二度と帰れない。家族にも自由に会えない。学校にも行けなかった。施設の外に自由に出ることもできない。
盆踊りで、地元の人たちと触れ合い、別れ際に名残を惜しんでおられた。光景が忘れられなかった。
中学生の時から学校の先生になろうと思っていた私は
京都に帰ってから、障害のある人の学校や教育について調べてみた。
そこで京都には、日本で最初の盲学校、聾学校さらには、特殊学級(特別支援学級)などが最初にできたことを知った。
幾つかの養護学校と言うものがあるのも知った。
田舎のあの施設の人たちは、学校に行くこともできなかった。山奥の誰にも会わないところでひっそりと暮らしている。
いろいろなことを考えて、私は高校2年生の夏に、障害児教育の道に進むことを決意した。
あの盆踊りのあたたかな光のような人と人との交わりを、自分も作っていけるようになりたいと思った。
誰もが当たり前に、教育を受けられるようにそんな世の中にしていきたい。自分には何ができるかわからないけれど。
自分1人ではできないだろうけれど、同じような思いをもつ人達と一緒に専門的な教育を受けて私も頑張っていきたい。
43年前の体験が、あったからこそ、今の自分がいる。