次女の一歳の誕生祝いに、高校時代からの親友が、子供用ハーネスを贈ってくれた。可愛らしいくまのぬいぐるみが付属したリュックサックの上部に、約1mの長さの紐が取り付けられている。娘の安全を願ってくれている彼女の気持ちが伺え、とても嬉しかったのを覚えている。
カラーバス効果とは、なかなか馬鹿にできないものである。妊娠がわかってからというもの、テレビやネットを見る度に、子供にまつわる事件や事故などのニュースが、頻繁に目に留まるようになったのだ。
そんな折、昼間なんとなく見ていたワイドショーで、子供用ハーネスが話題に上げられていた。あまり詳細は記憶していないが、とある母親が幼い子供にハーネスを装着して外出していたところ、赤の他人から、まるで犬の散歩のようだと揶揄され、深く傷ついたという内容であった。それに対し、著名人たちが各々の観点から熱く議論を交わし合っていた。擁護派の意見が比較的多い中、ハーネスは奴隷制度を彷彿させる、などと苦言を呈す者もいた。
「まぁ、あったら便利なんだろうけど。確かに犬の散歩っぽいし、私は恥ずかしくて使えないわ。」
当時の私はその番組を観ながら、傷つけられた母親の心境を察することもせず、このような結論に至った。子供のせわしなさを経験していない若輩者であった上に、想像力までもが欠如していたのだ。
というのも、一番に授かった長女は非常に大人しい性格で、所謂手のかからない子であった。外出時も私から片時も離れることなく、それが普通であると盛大に勘違いしていた私は、「みんな育児大変とか言うけどマジ余裕〜!」などと慢心していたのである。
しかし、その翌年に産まれた次女によって、私は認識を大きく改めさせられることとなる。詳しいエピソードは割愛するが、好奇心旺盛で、とにかく落ち着きがない。このままでは、いつか交通事故や連れ去りなどの被害に遭いかねない。ここでようやく、ハーネスの必要性を痛感させられたのである。時に、子供の安全を最優先に行動するには、他人の目など気にする余裕すらないということを、身を持って知ることとなった。と同時に、これまでの自分の視野の狭さと経験値の低さの無自覚を、心底反省したのである。
幸い、我が家は年子であるという明快な視覚情報を周囲に開示できたこともあり、ハーネスの使用に関しては他人から心ない言葉をかけられるどころか、「貴女はよく頑張っているね。」「今はそんな便利な物があるのね、私が子育てしていた時代にも欲しかったわ。」など、何ともありがたい声がけをしてもらえることが多かった。しかし、一見大変そうには見えない一人っ子の親がハーネスを使用していた場合、周囲の反応はどんなものになるだろうか。楽をするな。子供はペットか。手を繋げばいいだけのことだろう。これらはADHDの息子を持つ友人が、ハーネスを使用中、実際にかけられた言葉である。
想像してみてほしい。例えば会計時、レジの店員から釣銭を受け取る。この時、通常片方の手には財布を握っている。利き手で受け取った釣銭を財布の中にしまう。この一連の作業をしながら、子供の手など握っていられるだろうか。子供は一瞬の隙をついて親から離れ、出入り口へ向かい、店外へ出る。ここまで来れば、あとは何通りもの最悪の事態が予見できる筈である。
しかし、周囲の否定的な声に負けてハーネスの使用をやめた親が、いざ子供に怪我をさせたり事故に遭わせでもしたら、世間はどんな声を投げかけるだろうか。大半の者が、口を揃えてこうのたまうのだ。「親は何をしていたのか」と。
経験が伴わない者ほど、他人の行動や失敗を非難し、中傷するのだ。中には、自分は育児の経験があり、しっかりと教育してきた実績がある自負する者もいるだろう。しかし、子供の特性とは十人十色である。自分の経験で培った育児論が、他の子供の性質と合致するかと聞かれたら、一概にイエスと答えられるだろうか。無論、今の私にはできない。
昨今はハーネスに対する抵抗感を示す者は減少傾向にあり、非常に喜ばしいことではあるが、これは何もハーネスに限った話ではない。子育てに悩み試行錯誤する親に対し、机上の空論を振りかざし、心ない言葉で攻撃する人々は後を立たないのである。
人は、己の知見だけで物事を推し測りがちである。
他人のたった一つの場面を切り取って、その人の全てを把握した気になっていないだろうか。かつて愚かであった私のように。
親友から贈られたハーネスは、使用しなくなった今も、しっかりと手元に保管してある。当時独身であったにも関わらず、母親である私の境遇を理解し、更にはその先に待ち受ける苦労を想像して選定してくれた代物なのだ。