「あなたにもチェルシーあげたい」

かつて比率4：3の世界から、美しいあの娘が私を見つめて言った。数多の手垢がつく前の無雑な私の心に彼女のその言葉が刻まれていった。爾来、幾度か甘酸っぱい逢瀬を重ねてきたものの、次第に私は彼女の元を遠ざかっていく、他に睦言を交わす相手は幾人もいたのだ。私は彼女の笑顔を笑顔として受け取る事のできない安っぽい男へと変貌していった。

　それから幾春秋を経たろうか、ここに至るまでに彼女をふと目にした事は何度もある。彼女と重ねた時間の事は互いに遠い記憶でしかないのだけれど、経た年月の分だけ私が荒んでいくのに比して、彼女はいつも真新しい装いで、光沢のある艷やかな肌さえもきっとあの時のままで、私の訪れを待っていたに違いない。男の身勝手は移ろいゆく彼女の想いなどを斟酌しない、自身の周りを構成する全てのものは永々とあり続け、変わってゆく自らとは裏腹に今日と同じ明日が累々と並んでいるものと錯覚していたのだ。

　そんなある日、私のもとに知らせが入る。3月の末を以てあの娘は旅立つ、二度と逢う事は叶わない。と。知らせはメイジと言う彼女が属する置屋から入った。

「ああ、チェルシーにあいたい」

私の非難されて然るべき身侭、自分の想い一つ、戯れに余人の生殺与奪の権を得たかのような暴虐、それも十分以上に承知しているが、懐古主義と言う以上の肉感的な渇望が私の心を支配する。

「もう一度、あの娘と逢瀬を重ねたい……」

もう二度と逢う事が叶わなぬのならば、肌の感覚を通じて彼女を私の心に定着させたい、この先ふと思い起せば、いつでも肌の感覚で彼女の姿を描ける、そんな心の状態にしたい、しておかねばならぬ。

　いそぎ、私は以前彼女を見かけた事のある、スーパーと言う名の砂漠に赴く。星の王子さまの中に、砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ。と言う言葉があるけれど、色とりどりのスーパー砂漠は美しくはあっても井戸が見つからない、彼女はいない、彼女がいた筈の隙間が虚しく私を迎えるのみだ。焦燥と後悔が私の心から湿り気を奪ってゆく、乾ききった私の心がはらはらと砂時計のように床へと流れ落ちていくのだ。気を取り直し、次なるスーパー、コンビニ、いずれも彼女は見つからない、日は既に暮れて夜の星星の間を私は流浪の民として渡るのだ。自らを星の王子さまになぞらえてはみるけれど、ないものを探す、かつてはあったものを探さねばならぬ徒労が、星の王子さまのロマンティシズムから遠ざけてゆく。星の王子さまは薔薇を育て、私は中庭でキンカンを育てているけれど、スーパーで見るキンカンは粒が大きく色艶も良い。ありふれたものである以上に立派ではない私のキンカン。

「時間をかけたからこそ、そのキンカンは大切なんだよ」

と、示唆する者も私にはいない。空虚な砂漠を渡る、コミカルな王子さま、さだめしチェルシーはもういないのだ、と得心し、何も買わぬままでは自らの惨めが募るばかりであるから、玉子をのみ贖いて帰路につく。

私は星の玉子さま、身勝手で滑稽な玉子さま、星の王子さまのキツネは

「大切なものは目に見えない」

と言ったけれど

星の玉子さまは

「大切なものはいつも見えている、でも見えているときはそれが大切だってわからないんだ」

と悟るのだ。

チェルシーちゃんよ、いま何処…

夜空にはたくさんの星が輝いている。

南無