災禍はいつでもやってくる。

一昨日、山登りの途中不意に転倒し、左腕に擦り傷を負った。

小石に足を取られバランスを崩し、登山道の片隅で地面を背に横たわる私。腕が少し痛いけれど周りは静かだ、不思議な感覚だ、空をこんなに真正面から見る事はあまりない。見上げない青い空が木々の向こう側に広がっていた。しばし仰向けのまま、空の美しさと木々のざわめきを見惚れているうち、鋭い痛みが突き上げて私の青い静寂が破られた。

こうした場合、小説やらドラマやら映画では美しいヒロインが現れて

「大丈夫ですか、お怪我はありませんか？」

などと、しなやかな指先を差し伸べてくれるものなのだが、私の元へはついにヒロインは現れなかった。

このような時の為にセリフまで考えてあるし、その後の展開も逐一予定があったと言うのにどうしてくれるのか。私はプリプリである。

が、気を取り直し、痛みもごまかし、いつもの通り山道を歩きながら思索する、ちょうどこの山麓辺りが西田幾多郎先生の哲学の道に当たり、西田先生より標高の高いところで思索にふけったからと言って、より高度な思索に至ろう筈もないのだが、格好と体裁だけは整っている。

主題　我考へル最モ有益タル金ノ用途ハ是如何ニ

物質的なものを買い漁るのも、良い歳をしては阿呆の誹りを免れない、モノを所有するとは突き詰めれば、対象となるモノとの距離を限りなく近くする作業に他ならない、例え長年所有していたとしても、いずれそのモノとは自らの死を以て距離を遠ざける事となる、高名な絵画も彫刻も美術的歴史的価値を鑑みれば、自らが生きたその時代に預かっていただけに過ぎない。畢竟、購入所有するとは、その対象物が人類にとって価値があればあるほど一時期の預り賃の性格を帯びてくる。

昔、所有するルノワールとゴッホを自分の棺に入れてくれと、とぼけた事を言ったおっちゃんがいたけれど、人類の宝を所有するとは、その時代にたまたま預かっているだけに過ぎない事を分かっていないのである。所有する事が即ち自儘になる訳ではないのだ。

あの世には六文銭があれば良し、ルノワールやゴッホを携えて三途の川は渡れない、フェリーの船着き場にいる奪衣婆を喜ばせるだけではないか、全ては虚しい。

所有とは実に虚しい一面を持っている。限りなく距離が近いだけで、所有したからと言って自身と一体化する訳ではない、距離が近いものとして、それは何処までも個別に存在する。それだけである。

翻り普段、若さと接する事が多い私は彼らの可能性についてつらつら考える。清冽で辛辣で抽象的ではあるけど、真実を突いた絵を描く子、話し言葉を並べただけで詩ができてしまう子、素晴らしいユーモアのセンスがある子、才能は種々様々であるけれど、原石としての輝きは等しく美しい。

そうした才能を見出し涵養し、できうるならばその才能を以て人生を一人で渡って行けるようにするのは大人と社会の責務である。我が子だけ良けりゃいいってもんじゃないのだ。

自慢話を聞いてもらいたい。

私には血統的な実子がないけれど、たくさんの子がいる。それぞれの子がそれぞれの居場所を見つけて、それぞれの人生を歩んでいる。

年長の世代はもう二十歳を過ぎた。立派な大人である。

工務店で朝から夕まで働く子、伝統工芸を学ぶべく日々修行に励む子、宮大工を目指す子、ドラマで小さな役を貰った子、料理を志す子、医師を目指す子、去年、慶應義塾に入学した子。彼らが私のルノワールでありゴッホである。所有物ではない、関わりを持たせて貰った紛うことなき私の子供たちである。

そう、楽しませて貰っているのは私の方で、コンクール入選、大学合格、製作物の写真、美しい料理の写真などが定期的に子供たちから送られてくる。

所有する楽しみなど遥かに越えた愉悦と言って良い。

既にたくさんの愉悦を味わった私は見返りを求めてはならない、彼らを用い懐を肥やそうとすれば私は下郎になり下がる。ただ彼らに申し伝えてあるのは、もしこの先多少なりとも余裕ができたならば自身と同じ境涯の子たちを見つけ、私と同じ事をし、またその子に同じ事を申しつけよ、そうすればこの試みが未来永劫続き、そして相当数の才能が世に出る事にもなろう。という事だ。

物理で言うところの質量保存が質量拡大となるのだ。世の中には大金持ちがたくさんいる筈なのに、このように楽しく贅沢な試みを何故行わないのか、私は不思議で仕方がない。

最後にこれは何度も申しているけれど、私は善人ではない。善人でないから善人たるべくこのような事をするのである。それは子らにも申し伝えてある。

女性たちからは悪い男と言われるし、それは抗弁したい事もあるのだけれど、女性に挑んで敵うわけがない。甘んじてその称号を受け入れている。

悪くて危険な男ついでに、幸い、と言うか私の同級生どもには経営者が多い。この経営者どもから「うちの子」の将来の為の資金を寄付金の形で強請る手もある。

これは彼を呼び出し「あのことを言うよ」とボソッと呟けば良いだけである。善行に賛同する企業となればイメージアップにもなろう。

死に金を生き金に替える作業は楽しい。新しいマネーロンダリングである。

今日もカタシは暗躍するのだ。

むふふ

質量拡大の法則