季節の移り変わりは、これまで幾度も見て感じている筈であるのに、その都度が清冽に感じられ、真新しいものを押し頂くように受け取り、また、来る季節そのものが愛おしいものに思い、それは昔日の初秋とは相当に違うものであっても、朝夕の空気に僅かに混ざる秋の調べとでも言うべき香気を注意深く嗅ぎ取り、日が暮れてよりのちは夜気に滲むように広がってゆく虫たちの声を佳きものとし、声のあるじは探さず、遠くで、近くで、響く声の絶え絶えに、秋の訪れの確かなさまを読み取る。
名残りの桔梗の青紫と白妙、その大きく大きく膨らんだ蕾が開くとき、そこから秋が少しずつ流れ出てゆくのだ。

 昭和の頃はお盆も過ぎると、一日のうち傾いだ西日の頃から秋の気配がして、夜が明けてしばらく経つまでは「訪れ」と言うものを感じる事ができた。
現在は、秋と、それから春が短くなり、峻烈な寒さの冬は遠ざかり、厳しい暑さを伴う夏のみが長くなった。
それだけに、夏から秋への変わり目は余程鋭敏な感覚で臨まねば、それまでと何ら変わらぬ暑気に散りばめられた秋の欠片を感じる事は叶わぬのだ。
秋の訪れとはそれだけ貴重なものとなりつつある。

 人はともすると、大きな出来事を前に、これは一生に一回の事だからね、などと、イベント性を問題にする事があるけれど、じつは日々、どの瞬間であれそれが一生に一度である事に何ら変わりはない。
私がいま、これを記している時間も、あなたがイケメンのグラビアを見て頬を赤らめている時間も、夫婦で仲睦まじくいる時間も、或いは言い争いをしてしまう時間も、そして今年の秋を感じる時間も、これは悉く一生に一度きりの時間である事に変わりはないのだ。
おそらく、貴重でないものなど何一つとしてないのであろう、人の一生は貴重なものばかりで繋がれた一本の線だと言ってよい。
言い古されてはいても、一期一会は真実であり真理であると、何かにつけて悪態をつく私ですら近頃はしおらしくそう思ったりする。

 もちろん、そうは言っても日々を無為に生きてしまうのも人であるから、人の人らしさ、愛すべき人らしさ、という点で、これを無下に非難するわけにもいくまい。日々を結果に於いて無為に生きても、それは彼が人であったと言うだけで、言い換えるなら人間味があったと言うことに他ならない。
人であること自体を非難の対象とする事はできないのだ。
ただ、きっと、心の片隅に今と言うものの貴重さを留めておくと、その後が随分と変わってくるように思う。
同じ街角の同じ景色、同じように道行く人々、いつも通り微笑む佳い人、その中に少しでも多くのいつもとは違うものを見出せる人は人生の達人と言えまいか。
人はいつも通り過ぎてしまう。それは、その景色がいつもと同じだからだ。
きっと、いつもと違うところはいくらでもある筈なのに、人は通り過ぎてしまう。

季節はいつも向こうからやって来るけれど
それはこの前とは違う季節
そして秋もこの前とは違う秋

あなたの側にいる人も
昨日と今日では違い
明日もまた違う
繋いだ手のぬくもりが昨日と同じでも
今日人知れず、同じ手で涙を拭ったのかも知れない
今日や今が累々とけじめなく続くのではない
その人の10分あとの違いを気づける力を
愛と言ったりするのだ









ふっ…きまったぜ………

むふふ


南無