江戸時代末期の藤兵衛さんの後を継いだのは、明治時代の藤兵衛さん。

 

この藤兵衛さんは1839年生まれなので青年期に幕末の激動期を過ごした方と思われる。

子供は分かっているだけで4人いて、本家を継いだのは藤三郎さん、弟2人はよく分からないが、娘のナヲさんには鹿島田の有力者の榎本家から養子の長吉さんを迎えて別家をたてた。

この別家が隠居家と呼ばれ私はその子孫である。

ちなみに、藤兵衛さんには妻が2人いて(先妻は離縁が死別かは不明)、男3人が先妻の子で、ナヲさんが後妻の子のようだ。

この後妻は小倉村の有力者の蕪木家の娘でレンさんという方らしいのだが(私の父談)、岸家文書には小倉村の百姓代蕪木政右衛門さんの娘ゆりさんが、小倉村の藤兵衛さんに嫁いだと記されている。

私の父が知っているレンさんと岸家文書のゆりさんは年齢も同じなので、間違いなく同一人物のはずで名前が違う理由がよくわからない。

一つ気になるのは、ナヲさんにレンさんという娘がおり、その後の隠居家の子孫がレンさんとゆりさんの名前を混同して、私の父に伝えた可能性があると考えている。

私自身は藤兵衛さんの後妻レンさんとゆりさんは同一人物で、蕪木政右衛門さんの娘で明治時代の藤兵衛さんの後妻として嫁入りし、ナヲさんを産んだことでほぼ間違いないと考えている。

 

岸家文書に記載されている1871年畑方御年貢米取立帳に捺印しているのは、この明治時代の藤兵衛さんだろう。

 

さて、この藤兵衛さんはのお墓は少し不思議な点がある。

今の我が家の墓は、大きく本家と新家と隠居家の墓域に分かれているのだが、明治期代の藤兵衛さんとナヲさんと思われる戒名は本家の墓誌に記載されているが、墓石は隠居家の墓域にある。

そもそも藤三郎さんの弟2人には別家を立てさせず、後妻の娘のナヲさんには養子を取って別家を立てさせる理由もはっきりしない。

推測でしかないが、先代藤兵衛さんが亡くなった後に生まれた後妻の娘を可愛がる藤兵衛さんと藤三郎さんの関係悪化が表面化、次代当主は藤三郎さんは当然だが、後妻と娘のために藤兵衛さんは鹿島田の有力百姓榎本家から婿を迎えて別家を立てさせ、自分もそこに入り浸り、そこから隠居家と呼ばれるようになったが、当主の藤三郎さんとの関係は悪化。。。藤三郎さんとしては後妻とその娘に肩入れする父ではなく、自分こそ先代藤兵衛さんの本家を継ぐ当主であらという自負が墓域が異なっている理由かかもしれない。

まあ、真相は不明だが2代連続で娘に養子を迎えて別家を立てるというのは、現代的な感覚で見るとちょっと不思議。

小倉村内での我が家の立ち位置と関係しているかも。

その辺はおいおいに。

藤兵衛さんは明治末期の1910年に72歳で永眠。

激動の幕末に青年期を過ごし、日本が興隆していく最中で亡くなったその人生はどんなものだったのか。

 

次は鹿島田の榎本家から婿養子として迎え入れられた長吉さんと明治時代の藤兵衛さんの娘ナヲさん。