3月10日。

忘れてはならない日・・・。

 

今年のお正月に伯母(87歳)から

聞いた「東京大空襲」の話です。

どうか多くの皆さんに知ってほしいと

思っています。

 

~以下、伯母による体験談~

 

当時、伯母は15歳。
東京の横川橋(墨田区)に住んでいました。

父(目が悪かったため兵役を免れた)、母、

姉、本人(伯母)、弟二人の6人暮らし。
そのほかの妹弟は、集団疎開や

祖母宅に預けられていたりで離れて暮らしていました。

 

 

空襲がはじまったときの記憶を、

伯母は夕方暗くなってからだったと思う・・・と

話していましたが、実際は10日未明だったようですね。

B29が焼夷弾を落としはじめ、

現在スカイツリーがある辺りから延焼してきたといいます。

 


伯母たちも自宅下の防空壕(父親が自ら掘ったそう)に

身を寄せるも、ここでは危ないと判断し防空壕をでます。

父親、姉は家を守るために残り、

母親、伯母(本人)、弟二人(6歳と赤ん坊)は

近くの小学校へ逃げたそうです。

しかし小学校の防空壕に避難するも、

ここにも火が迫り、さらに逃げなくてはならない状況に。

小学校の校舎はコの字に建っていたそうで、

火災によって飛んできた火の粉が

校庭で渦をまいていたといいます。

今でいう火災旋風のような状態だったのではないでしょうか。



校庭から逃れ、雪のように降り注ぐ火の粉のなかを

少し先の錦糸公園まで逃げることに。

火災の風で飛んでくる真っ赤に焼けた
ブリキ板を避けながら、4人で必死に逃げたそうです。

なんとか辿りついた錦糸公園。


もともと駐屯地があったそうで、

東京大空襲より前の空襲ですでに焼けて

しまっていたため、このときは火がまわってこずに

助かったそうです。

ホッとしたのでしょう…

伯母はとにかく眠くて眠くて、

6歳の弟としゃがんだまま支え合って眠ったそうです。

あとで気づいたそうですが、

母親が弟(赤ん坊)を背負うのに着ていたねんねこにも

火の粉がつき、弟の肌着の手前まで火が入っていたようです。



そうして朝を迎えるも、食べるものも水もない状況。

途方に暮れながら錦糸町の駅まで歩いていると、

家を守るために離れ離れになっていた父親が

なんと!前から歩いてきたんだそうです。

(姉も無事でした)

伯母たちは、誰ひとり命を落とすことなく、

奇跡的に再会できたのです!



しかし、この空襲で10万人もの命が失われました。



沢山の亡くなられた方々のご遺体・・・

仰向けで倒れた馬の死体…

15歳という多感な年齢にみた悲惨な光景は、

いまでも脳裏に焼きついていると言います。


戦後の暮らしは、それはそれは大変だったといいます。

父親の田舎に移り住んで6年。

母親は未経験だった農業をするなか、

収穫間近の野菜を盗まれたり、

一緒に住むことになった父親の継母から

ひどい仕打ちをうけたり…と

並々ならぬ苦労が多々あったそうです。

でも、誠実に生きていた伯母たちに

優しく手を差し伸べてくださる方々もおり、

田舎での生活6年を経て東京へ戻ったそうです。



私の母(伯母の妹)は終戦時が5歳ということもあり、

さほど辛い記憶はないといいます。

ただ伯母たち戦争を経験した方々にとっての

辛く悲しい記憶は、消えることなくいまでも心に残っています。


そしてこれからもずっと胸にかかえたまま生きていくのです。

最後に・・・伯母は

「戦争は二度とイヤだ」
強く強く言いました。

経験したものがいうからこその重い言葉。



戦争を知らない私たちは、
まず戦争というもの、
そして戦争がもたらしたものを知り、
二度と戦争を起こすことのない世の中を作っていかなくては

ならないのだと強く感じました。


これからの未来を背負っていく子供たちと一緒に

この話を聞けたこと…
そして話してくれた伯母に…
感謝したお正月でした。