帝国海軍最後の旗艦 | 七転八倒/七転八起

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”sign マツモト”栃木の看板屋オヤジの日記。
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ブログのジャンルをバイクから抜いちゃいました。
だからといって、バイクに乗らない訳じゃないですよ。
 
さて、大手を振ってバイク以外の投稿を出来る事になったので、またまた旧海軍ネタです。
興味の無いお方はスルーお願いします。
 
 
 
物心ついた時から ずーっと興味を持ち続けている旧日本海軍艦艇。
といっても好きな艦艇は少しずつ変わっている。
宇宙戦艦ヤマトの影響から、戦艦大和戦艦全般
戦艦は航空機に勝てないと知り戦艦から空母
その後 あるきっかけから重巡洋艦が好きになる。※このきっかけと重巡洋艦の事も後で投稿しようとネタを温め中
 
 
 
KKフォトプレス出版 「帝国連合艦隊」
私の艦艇知識の大部分を占めるバイブルw
絵は私世代のプラモデル箱絵で有名な 小松崎 茂 大先生!

小学生の頃に買ってもらった雑誌 当時定価1800円なので小遣いで買える訳もない。
空母「飛龍」の表紙に魅せられねだった記憶なので 3~4年生の時だったと思う。
他にも多数の本を買ってもらったが、これだけは大事にとってある。
 
そしてオッサンになった今 最も興味深々なのが軽巡洋艦
 
簡単に説明すると
重巡洋艦(一等巡洋艦)=基準排水量10,000t以下  主砲口径5インチ(127mm)超過8インチ(203mm)以下
軽巡洋艦(二等巡洋艦)=基準排水量10,000t以下  主砲砲口径6.1インチ(155mm)以下
共に艦隊決戦の補助や護衛任務、夜間戦闘、通商破壊任務を主とし雷撃(魚雷攻撃)能力を持つ高速艦。
※この定義は軍縮条約により定められた一応の基準であり、各国の基準や年代によって多少変わる。
  日本帝国海軍も軍縮条約をかいくぐる為「それってどうなの?」みたいな巡洋艦を建造したりした。
  まぁ素人の知識なので間違っているかもしれない。
この画像を撮りたいが為に、模型を集めていたといっても過言ではないw
上から
「長良」  
英国巡洋艦を元に設計。日本軽巡洋艦のスタンダード5,500t級
      「球磨型」「長良型」「川内型」と合わせて大正9年/1920年~大正14年/1925年まで14隻も作られたベストセラー
 
 
「夕張」 
 早い 安い うまい!  もとい 軽い 安い 強い をモットーに 天才 平賀譲造船大佐が設計。
 財政難に喘ぐ海軍に対して 「3,000t程度でも5,500t級同程度の武装を搭載した巡洋艦を作ってみせる」と意見したとか。
  実験的な巡洋艦で一隻しか作られなかったが、後の日本海軍艦艇の設計の基となり ジェーン海軍年鑑に特記項目付きで掲載されている
 
 
「阿賀野」
旧式となってしまった5,500t級に代わり、水雷戦隊旗艦を担う目的で作られた。
コンパクトな船体に配置バランスの良い兵装が流麗なシルエットを備えた軽巡洋艦。
「能代」 「矢矧」 「酒匂」の姉妹艦が。
 
 
「大淀」
日本が建造した最後の大型巡洋艦
潜水艦隊の旗艦となり、目となる索敵機を積むために作られた性能特化型。 
 
 
 
 
 
 
 
ここまででもずい分と長く書いてしまっているので申し訳無いが、今回取り上げたいのが 
軽巡洋艦 大淀
日本帝国海軍は潜水艦の隠密性を認め、潜水艦隊を編成しようと目論んだ。
しかし潜水艦のデメリットとして挙げられるのが索敵能力。
潜望鏡では遠くの海上まで見える訳がないし、頑張って水上20ノット・水中8ノット程度の速力では、広大な太平洋で敵艦を見つけるのは至難の技。
レーダーも無い時代、潜水艦の目となる水上偵察機を積んだ巡洋艦を旗艦とする計画が浮かんだ。
 
この潜水艦艦隊旗艦のために海軍は新型水上機の制作を川西航空機に命令する。
敵の制空権に突っ込んでも相手を振り切って逃げる事が出来る水上偵察機。
海軍の求めた性能は常識外れなものでした。
 
最高速度:高度4,000mに対して約555km/h (°д°)
 
ちなみに零式艦上戦闘機21型でさえ 高度4,700mで約533km/h。
フロートを付けた水上機でゼロ戦なみの性能を備えよとのムチャ振り
 
 
海軍相手に
「そりゃ無理!」
と言えない川西航空機は考えた 最大ネックとなるのは空気抵抗となるフロート。
安定は悪いが抵抗の少ない単フロート型とし、両翼に吊り下げられる補助フロートは空気を出し入れすることで縮んだり膨らませたりできる引き込み式。
メインフロートも いざとなれば切り離せるようにして重量&抵抗軽減で速度アップ!
海軍が求めたのは最高速度なので
「切り離せばスピード早くなります!」って言い逃れ www
当時最大馬力を誇った三菱の「火星エンジン」を採用するが、トルクが強すぎて単フロートだとひっくり返る。
それを解消するために二重反転プロペラでトルクを打ち消す。
逃げ切る事を最優先した機体なので、武装は尾翼に7.7mm機銃一挺のみ。
色々と設計どうりにいかない試作機でしたが、昭和18年/1943年8月 「紫雲」と名付けられた強行水上偵察機が海軍に採用される。
 
紫雲を搭載する目的の大淀も特殊な構造を採用する。
3,165kgと 零式水上偵察機より500kgも重い機体を射出する為、射出重量5t、射出速度は150km/h。 全長が44mという長さの専用カタパルトを装備。
大淀の全長が192mだから おおよそ1/4近くを占める凄い長さ。
紫雲を最大6機搭載させるために大型の格納庫を備えているので、煙突から後ろは全部 航空設備。 
帝国海軍としては異形だが、現海上自衛隊の護衛艦に通ずるシルエット
 
 
昭和18年/1943年2月28日
全長192.00m  基準排水量8,164t  最大速度35.0ノット 
潜水艦隊旗艦という任務ゆえ 巡洋艦なのに雷装は無し。
110,000馬力を誇る 風変わりな巡洋艦が呉海軍工廠から竣工する。
※基準排水量39,130t 長門型戦艦でも 82,000馬力
 
巡洋艦の区別に艦の大きさは関係無いし、竣工時代が違うとはいえ古鷹型重巡を超える大きさ
小松崎先生も書ききれなくて 艦尾は別ショットw
※画像の模型と小松崎先生の絵は改装後
 
紫雲のための特化型巡洋艦として竣工したものの、最大速度469km/hしか出なかった紫雲
試作機段階でフロートの切り離しができない、フラップの動作不良、補助フロートが着水時にしぼんで役割を成さないなど、問題が続出。
補助フロートの作動不良によって試作一号機は転覆と散々。
採用後も 二重反転プロペラの複雑な構造、フロートのキールの強度不足、自動操縦装置などからの油漏れなど、後から後から問題が噴出する。
試作機を含め15機しか製造されないうちに紫雲は失敗作と判定され製造中止
これは川西航空機が悪いのでは無く、海軍の無茶な要求と当時の技術力のせいだと思うのだが。。。
 
紫雲が搭載できないとなると大淀の存在意味がなくなり、2番艦も製造中止
ガン○ムを積めない●ワトベースみたいなモンですな ╮(•́ω•̀)╭
 
うすら長い巡洋艦の運用に 海軍は頭を悩ませる。
主砲は前時代の15.5cm三連装砲2基のみ 魚雷も無い。  とてもじゃないが「攻撃」を行える艦とは言えない
幸いにして速力と対空兵装は軽巡の中でも随一
結局 巨大な格納庫を利用した輸送任務を任されることになるのでした。
 
輸送といえどバカにしてはいけない大事な任務の中、度重なる敵機の攻撃を自慢の対空兵装で何度も追い払い、
傷付いた僚艦を曳航するなど黙々と役目を果たす。
 
昭和19年/1944年 3月  大淀に連合艦隊旗艦という大役が任される。
連合艦隊旗艦というのは、海軍の総司令部が存在する艦のことを指し、言わば帝国連合艦隊の最上位。
これまで威厳等々を持ち合わせている戦艦が務めることになっており、前旗艦は超戦艦 武蔵!
軽巡にはまたとない名誉なのだが。。。
 
何故 軽巡である大淀が任命されたかというと、大型の戦艦は燃費も悪いし速度も遅いので広げ過ぎた戦線を管轄するには難がある。
戦艦は航空機の前では無力であったので出撃を控えていたが、機動部隊の空母も乏しくなった今、後方で温存しておく余裕も無くなって戦闘に参加させなくては数が足らなくなったという。
そこで 燃費が良くて速い 通信設備・レーダー・索敵機が充実 軽巡にしてはスペースがある、という「たまたま」性能満載が選ばれた理由。どうせ戦いには参加せず、後方からゴニョゴニョ言うだけなのだから。
当時の連合艦隊司令長官 豊田副武大将「戦死するなら武蔵か大和で死にたい。こんな船の上ではいやだ」と嘆いたとか。
 
紫雲6機のための巨大格納庫は司令部に改装、専用カタパルトは撤去され一般的な物に、余ったスペースに対空兵装追加などを施して
昭和19年/1944年 6月  大淀は連合艦隊旗艦としてマリアナ沖海戦に参戦する。柱島木更津沖にて。。。。
あれっ?
 
 
えっ!?
フィリピンに行かないの???
 
マリアナは電波状況が悪いので通信設備が整った本土で指揮を取った方が確実だったという。。。
これじゃ戦艦からわざわざ旗艦を移さなくても良かったと思われ ╮(•́ω•̀)╭
もう海上に司令部を置く意味さえ疑問となり、この海戦の後 司令部は陸上に移動 連合艦隊旗艦を退く。
帝国海軍最後の旗艦となった。
 
結局、 軽巡にしては大きい 対空兵装だけが自慢の艦となってしまったが、その力を発揮して 囮となった小沢艦隊で参加した「レイテ湾海戦」を生き延び、「ミンドロ島沖海戦」で空襲をかいくぐり、戦艦「伊勢」「日向」と共に格納庫をゴムで覆い燃料保管場所として超危険な任務 「北号作戦」を無傷で成功させるのであった。
 
昭和20年/1945年 3月19日 燃料が底を尽き呉にて練習艦となっていたが アメリカ軍機動部隊の艦載機からの襲撃をうけ艦底と喫水線上部を破損。ドックにて大急処置を受けるも破損した機関部の補修など抜本的な修理は実施されず。
 
同年5月 江田島湾まで曳航され重巡利根の近くで共に浮き砲台となる。
 
7月24日 アメリカ軍機動部隊艦載機の襲撃を受け500ポンド爆弾3〜4発が命中、右に傾斜して着底。駆けつけた住民(漁船)も消火に協力し無事鎮火、懸命な排水作業にて傾斜を普及させる。
 
7月28日、ふたたびアメリカ艦載機による空襲を受ける。次々に命中する爆弾による浸水のために転覆を防ぐことは出来ず右に横転。浅い海岸だったので、船体の一部のみ海面に出した状態で完全に船体は横倒しに。
昭和20年/1945年 8月15日 終戦    同年11月に除籍
 
昭和22年/1947年、解体が決定。 通常ならその現場で解体されるところを、「1隻ぐらい、故郷で解体してやりたい」という解体業者の思いから、自身が産まれた呉海軍工廠まで曳航され解体。
 
数奇な運命に翻弄された大淀だったが、最後は幸せにこの世を去ったのかもしれない。
 
合掌。
 
 
※2022、2、7 一部修正