こんにちは。
ビジネスマン行政書士♂です。
私はいままで仙台に通算17年以上住んでいました。
東日本大震災から4年たちました。
今回は、私自身の記憶にとどめておくためにも、
当時の経験の一部と、感じていたこと、そして素晴らしい若者の一人の話を
短くですが、書き残しておきたいと思います。
東日本大震災が起きた時刻、私は仙台のビルの18階で打ち合わせをしていました。
大型のコピー機が横滑りを繰り返すような揺れでした。
仙台港での火災が続いていたこともあり、
仙台中心部には化学薬品が燃えているような刺激臭が漂っていたことを覚えています。
津波で亡くなった知人を今でも年に何度も思い出します。
仙台市近郊では仙台空港周辺の地域で津波の被害が甚大でした。
それがたった1か月で不完全ながらも復旧したニュースを目にしたとき、
心強いような、(私は何もしていないのに)誇らしいような、希望がわくような、
ともあれ、前向きな気持ちになれました。
これは米軍がもたらしてくれた協力(トモダチ作戦)の記事です。
ちょっと長めですが、興味のある方は是非読んでみてください。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150306/278346/?n_cid=nbpnbo_rank_n&rt=nocnt
これだけの速さで復旧したのは、本当にいろいろな人たちの思いを受け、
助けを借りていたのだと改めて思います。
さて、私は、行政書士の仕事をする前から、東北を中心とした教育業界の隅で活動しています。
もう20年になります。
震災直後は、あの震災について話すことをなんとなく憚っていましたが、
2年ほど経って、多くの学生と当時の行動について会話をする機会がありました。
そこでの1人の話です。
彼女は、震災後5分後には、近くの避難所に行っていたそうです。
目的は、被災者の手助けをすること。
彼女の部屋にある、役立ちそうなものを手にして。
私が彼女から話を聞いたときは、何と何と何と、と列挙してくれたのですが、
残念ながら忘れてしまいました。
話を聞いたとき、私は彼女に質問をしました。
「なぜ、それほど速く行動したのですか」
彼女はこう答えました。
自分は一人暮らしなので(彼女は進学して仙台に来ていた)まずは自分の身を守ればいい。
そして、自分の身は守れる、大丈夫だと思いました。
一方、子供や老人を持つ家族は、この住宅地にたくさんいるはずです。
ならば、私が今できること、やるべきことは困っている誰かの役に立つことだと思いました。
だから、できることを考え、そのために必要な、身の回りにあるものを手に取って出かけることは
私にとってとても自然なことでした。
これだけの内容を(もちろん表現は異なりますが)整然と落ち着いて答えてくれました。
同じ時刻、私は余震を警戒し18階で身をひそめていたのに。
これほど冷静な分析と機転、そして行動力に、正直羨望を感じました。
そして(ちょっとクサい言い方ですが)未来に光を見た思いでした。
こういう経験に、私自身、教えられ育てられます。
教育業界が好きな理由もこれでしょうね。
次は、再び補助金の話に戻します。