はい、こんばんは巾着です。
これからはブログで戦国時代なぞについて書いてみようと思います。
とりあえず今回は自分の一番好きな武将、上杉謙信でいきます。
上杉謙信(うえすぎけんしん)
生没年:1530~1579
生い立ち:
越後の戦国大名。本名は長尾景虎(ながおかげとら)。幼名は虎千代。
長尾為景(ながおためかげ)の次男として生まれる。
戦国最強の武将として名高く、武田信玄と5回に渡る川中島合戦が有名。
毘沙門天を崇拝し、自らを毘沙門天の化身と名乗り、旗にも「毘」と言う字が書いてある。
通称は「越後の龍」。(越後の虎とも)
武田信玄と宿敵になったきっかけ:
謙信は元から武田信玄と仲が悪かったのでは無い。謙信本人は領土拡大欲が無いので尚更である。
1553年、信濃を支配していた村上義清(むらかみよしきよ)が、武田信玄の信濃侵攻により領土を奪われた。
その義清が謙信に対し庇護を求めると謙信はこれを受け入れ、義清を客将として迎え入れたのである。
そして謙信は義清の支配していた信濃を取り戻すという事を大義名分とし、川中島へ進軍。これが後に続く信玄との宿敵関係を生む事になった。
川中島の戦い:
最も有名な川中島の戦いは1561年の第四次川中島合戦であるとされる。謙信が川中島へ向かっているとの報せを受けた信玄はただちに軍を編成、進発した。
しかし謙信は信玄よりも早く動き、善光寺へ到着するとすぐさま妻女山へ向かい陣取った。
武田軍の城である海津城を通り越し、妻女山へ陣取る。これに不安を覚えた将兵も少なくはなかった。
一方武田軍は謙信の不可解な行動を警戒しつつも、茶臼山へ軍を置き、退路を遮断し、上杉軍に備えた。
啄木鳥戦法:
信玄は謙信に対しどのような策を取ればいいかを、各武将に尋ねた。すると信玄の軍師である山本勘助(やまもとかんすけ)が策を提案。合議の結果、それを採用した。
それはまず、武田軍本隊を妻女山の正面にある八幡原に陣取らせ、上杉軍の注意を引き付けておく。しかる後、別働隊をひっそりと妻女山の裏手へ回し、その別働隊が上杉軍を奇襲。上杉軍が慌てて八幡原へ逃げてきた所を本隊と別働隊が挟み撃ちにして殲滅する、啄木鳥の戦法であった。
謙信の軍略:
謙信は妻女山へ陣取っている時、すでにこの計略を見破っていたと言える。妻女山に霧が発生するとすぐに全軍へ妻女山を下山するよう命じ、神速で八幡原に居る武田軍本隊へと強襲した。
上杉軍の速すぎる攻めにさすがの武田軍も混乱。この戦いの最中に、武田信玄の弟である武田信繁(たけだのぶしげ)と軍師の山本勘助が敵陣へ突撃し、討死してしまう。
更には上杉謙信本人が武田信玄の居る本陣へ一人突撃し、信玄に斬りかかる。この時信玄はとっさに手にしていた鉄製の軍配で謙信の攻撃を防御したと言われている。必死に防御したため、信玄自身は大怪我をする事は無かったが、腕を負傷してしまった。
霧深し:
一方、武田軍別働隊は何をしていたかと言うと、妻女山の深い霧で思うように進軍できず、予想以上にもたついていた。上杉軍本陣へ到達した時はもう遅し、上杉軍は跡形も無く消えていた。事態の急変に気付いた別働隊は急ぎ妻女山を下山し、八幡原で苦戦している武田軍本隊の援護にかかる。
さしもの謙信も別働隊の到着を察知すると速やかに全軍へ退却を命じ、追撃する武田軍をかわし退却。
その後、善光寺に駐留している3千の兵と合流後、謙信は越後へと帰還した。
寸評:
第四次川中島の戦いはどちらの勝ちかというと、前半は上杉、後半は武田である。
白黒をはっきりさせるならば、信濃の支配を守り抜いた武田の勝ちと言える。
しかし戦いにおいては武田方の損害の方が多く、武田信繁など多くの武将が討死している。
これに対し上杉方の主な武将は一人も討死しなかったと言われている。
絶望的な状況を敢えて選び、鮮やかに戦う上杉謙信の軍略はまさに軍神と言うに値すると言えよう。
以上が一番有名な第四次川中島の戦いです。続きはまた次の記事にて・・・。






