-500〜350年(850)年
そもそも、弥生時代ってのは、弥生デザインの土器が使われてる時代って意味でのカテゴライズから始まったそうです。そのあと、文化的にはこれまで狩猟中心だった生活から、短期間で日本全国に爆発的に稲作が広がった時期がその本質であるってことで、その意味が変わっていったというようです。
しかしながら、その後に縄文時代でも稲作をしている地域が見つかり、今となっては時代の境界分けは形骸化していて、今では縄文時代と古墳時代のなんとなーくその間って感じだそうです。
それでも、稲作が爆発的広がりを見せたってことが、今の日本の食文化の始まりなので、大切なんでしょうね。
「弥生」という名前は、東京の文京区の弥生という場所で見つかった時に、縄文があしらわれていなかったため、その特徴を弥生土器と命名したことから始まるそうです。
石器は磨製石器が作られましたが、鉄器や青銅器も普及したそうです。けど、その製作方法は未だよくわかっていないそうです。
稲作が普及すると、米は備蓄が効くため、財産という概念が生まれた。そして、稲作を作れるものとそうでないものの貧富の差が生まれ、また土地に対しても価値が生じた。大規模な稲作をするとなると労働力も必要なため、明確な仲間とそうでない他者の区別が生まれるようになった。これは、各地でクニの始まったことと、戦争が始まったことを意味している。集落は身を守るため、周囲に堀を掘った。いわゆる環濠集落。
1世紀頃には、後漢から「漢委奴國王の金印」をもらった種集落があるし、3世紀には邪馬台国女王の卑弥呼が魏に対して自分が倭国ってクニの王様だと宣言し「親魏倭王の金印」を受け取ってる。
中国の三国志の一部を抜き取って、一般的に「魏志倭人伝」と呼ばれている一節があり、そこに卑弥呼のことが書かれている。それ曰く、倭国大乱っていう集落同士の大乱闘があって、結局卑弥呼っていう少女を王様にして、邪馬台国を形成して、誰が一番偉いかって事をなくしたって記載がある。それでも邪馬台国以外にもいくつも小国が倭の中にはあったという記載もある。でも、中国の文章だしどこまで正しいかは謎。実際日本でも戦闘死した遺体や武器の出土具合からも矛盾点が多く、そもそも邪馬台国が近畿にあったのか北九州にあったのかもまだ定まらない。
時代が経つにつれ、集落ごとの上位関係も決まって、権力の上下関係も決まってきて、その権力は墓の規模に反映されるようになってきた。