舞台『エレファント・マン』――メリック=小瀧望の“声”は、尊厳を貫こうとする人の叫びだった | オーヤマサトシ ブログ

舞台『エレファント・マン』――メリック=小瀧望の“声”は、尊厳を貫こうとする人の叫びだった

 

音楽ライブは未だ完全な再開には程遠い感がある(コロナ以降、現場ではまだKIRINJI×ハンバートハンバート@野音しか観れていない…)が、演劇に関してはここ最近ようやく以前のような上演ペースが戻ってきた。

とは言え、役者・スタッフ・観客からひとりでも感染者が出たらアウトなわけで、特に会期後半のチケットを取ってしまうと、「自分が観られる日まで果たしてちゃんと上演されるのだろうか」という本当に余計な心配をするようになってしまった。(いや、作品を作る人たちの健康を祈る気持ちは大事なものだけど、あまりにハラハラしてしまうのでメンタル的に負担で…)

今年は五反田団「愛に関するいくつかの断片」が公演中止になってしまったことは、本当に惜しかった。その後上演された「いきしたい」も掛け値なしにすばらしかったが、「愛の~」は前田司郎のコメントを読むかぎりひとつのターニングポイントになりうる予感もしていたので。でも「いきしたい」が本当に最高だったからいいか!(無限ループ)



さて、「エレファント・マン」@世田谷パブリックシアターも、千秋楽の2日前の回を取ってしまったばっかりに、果たして無事に上演されるのかどうか、約1ヵ月のあいだとにかく心配しながら当日を待つ日々だったが、無事に観ることができた。

舞台は19世紀のロンドン。原因不明の奇形化によって人々から迫害され、見世物小屋で自らを晒すことで生き延びているジョン・メリックは、外科医フレデリック・トリーヴズと出会い、彼の研究対象として病院の一室で暮らすことになる。はじめて家を持ち、他人との心の交流を持ち、普通の人並みの生活を得ることができたメリックだったが――。

観ているうち、ふとした瞬間に、メリックをなにか異形のものとして観ている自分に気がつく。それはもちろん演出や物語がそうさせているのではあるのだけれど、他者を異物として観てしまう目や心が俺にもあるのだという事実を、実感として突きつけられる。これはメリックを“醜いもの”として観るだけではなく、どこか“聖なるもの”として観ることについても同じだ。

メリックと“面会”した人々は、口々に「メリックは私にそっくりだ」と言う。あれはつまり、メリックに反射する自分自身に見惚れているわけだ。彼らはメリック自身を見ていないし、そもそも見ようとしない。ん? 「彼ら」? 他人事のように言ってるけどそれは俺も同じなんじゃないか? そう突きつけられる。

そんなメリックと同じ人として向き合う数少ない人物が、演じることを生業としているケンダル夫人であることもうまい仕掛けだと思った。演じることと素であること、外見と内面、公と私、本音と建前、規律と本能――本作は様々な二項対立の狭間で自分自身とは何かを問い続ける者たちの物語でもあった。

 

あるときは見世物小屋の壁、あるときはメリックが民衆の迫害から逃げ込む建物、あるときはメリックが暮らす部屋と、内と外・世界の外側と内側を、真っ白な壁と明かりという極めてミニマムな要素で表現する美術セットと照明も、その世界観を非常によく具現化していた。



メリックとトリーヴズ、彼らを取り巻くさまざまな人物を描きながら、物語は「人間はほんとうの意味で“尊厳をもって生きる”ということができるのか」という問いに突き進む。

これはごくごく個人的な感想だが、始まってすぐ、メリックを演じる小瀧望の発声が、灰野敬二のそれに似ていると感じた。目の前の世界に対してたったひとりで対峙する、その勇気と必然を背負った者だけが発する、自らの存在の発露としての声。

メリックの慟哭、あの声が耳から離れない。小瀧があの声を選び取ったのは必然だったのだろう。

 

(※冷静に観返すと、似ているような、全然似ていないような……でもあのときメリックの声を聴いて、俺は本当にそう思ったし、それは見当違いなことではないと、↓の灰野さんの声を聴いて思う)

 




小瀧は言葉通りの意味での「上手い役者」というよりは、ちょっと面白い資質を持った演じ手なのでは、と思った。

 

メリックの造形の素晴らしさは言うまでもなく、トリーヴズの見る夢の中でのメリックを演じるとき、客席に向かってトリーヴズの“病状”を説明する堂々たる姿もさることながら、記者(?)とのやり取りでの受けの芝居に、すごくいいものを感じたのだ。あの一瞬に、人と人とのあいだに生まれる言葉と空気を乗りこなしていく彼の才気を見た。

今回は演じた役柄の性質上、他の俳優とのやり取りにおいてもかなりイレギュラーな要素が多かったと思うけど、たとえばいつか4人くらいの少人数で丁丁発止のやり取りを繰り広げる会話劇などでの彼の佇まいも観てみたいと思った。今後もいい作品と演出家・共演者に恵まれ、演劇の舞台でその姿を観られることを楽しみにしたい。近藤公園、高岡早紀も素晴らしかった。森新太郎作品は今回が初めてだったが、かなり好みに感じた。次作も追おうと思う。



最後に。本作は日本での上演は2002年以来(出典:wiki)とのこと。18年間でこの国に起きたことを踏まえて、歪んだ選民思想がついにやまゆり園の件にまで行き着いてしまったいまの日本(言うまでもなく俺自身を含む)の惨状と、ラストシーンのメリックの姿をどうしても重ねてしまった。あのシークエンスの、すさまじい静寂と、壮絶な悲壮は、思い出すと涙がこぼれそうになる。

これを書いているついさっき、今夏に上演された「赤鬼」(作・演出 野田秀樹)の配信を観終えたが、これも「エレファント・マン」同様(というかむしろより強く)異形の他者に対する偏見・デマ・差別、そしてコミュニティからの排除・分断を鋭く描いた得難い作品だった。

「エレファント・マン」、そして「赤鬼」、いずれの作品も観て、俺は鋭く強烈な痛みを覚えた。で、その痛みはどんなに目を逸し見ないフリをしても、いま俺らの目の前に確実に存在しているものなのだ。こういう作品たちが2020年のいま上演されたことは、俺の中の演劇という表現に対するある種の信頼を再確認することができた出来事でもあった。

 

「エレファント・マン」は、12月5日(土)18時から配信上映される。(ジャニーズ事務所所属の俳優の主演公演を含む)優れた演劇が配信フォーマットで観られる機会が増えたのは、コロナを経ての数少ない良い変化かもしれないな。

 

また先述の「赤鬼」も、12月7日(月)17時までYouTubeで無料配信中。2020年に観る意味にあふれまくった演劇なので、これをここまで読んだ人には、ぜひ。「エレファント・マン」との相似性も感じられるかも。