戦国最強の武将 三浦義意公を祀る 居神神社

令和4年10月29日・30日に小田原市内、城山に鎮座する居神神社が創建500年を記念して、30日には神輿渡御が行われます。

居神神社のご祭神は、三浦荒次郎義意(よしおき)公。

 

北条早雲との戦での活躍が凄まじく、

「逃げる者を追い詰めて兜の頭上を打つとみぢんに砕けて胴に達し、横に払うと一振りで5人、10人が押し潰され、棒に当たって死んだものは500余名になった。」(北条五代記より)

 

昨今の戦国武将ブームもあり、居神神社の神様は戦国最強の武将としても有名に。

 

今回は、小田原城と居神神社神輿との深い関係をクローズアップしていきます。

 

 

「神輿は、明治21年 小田原藩お城大工の香川文造高之の作 関東では珍しい八棟白木造」

 

  要塞都市 小田原 江戸と京都の文化の交流地点で隆盛を極める

「江戸末期の小田原城を描いた文久図の一部」

 

小田原城は、天正18年(1590)に天下統一を目指す豊臣秀吉に対抗して、北条氏が小田原城町全体、全長9キロにも及ぶ土塁とお堀で囲む総構(そうがまえ)を築きました。

因みに北条氏が秀吉に敗れ、その後の小田原を任されたのは、徳川家康の重臣、大久保忠世公。菩提寺は、居神神社の真向かい大久寺です。

 

その後、城主の変遷はありましたが、300年余り、東海道の最重要拠点、東西の文化の交流拠点として、小田原は一層の栄華を極めます。

 

居神神社は、旧山角町 小田原城の守りの要である西側に鎮座し、目の前には旧東海道(現在の国道1号線)が通っています。

 

 

殿様も入れなかった小田原城 神輿は町衆ともに城内に押し進む 

 

小田原城下の代表する神社、総鎮守の松原神社 小田原の鬼門に鎮座する大稲荷神社 西の守り口に鎮座する居神神社

この3社は、三大明神と呼ばれ、歴代城主の崇敬も大変厚いものでした。

 

江戸時代に幕府で編纂した書物に

 

「巡行の次第、山角・筋違二町より箱根口城内馬出門にて祈祷、大手に出、青物町欄干橋より安斎小路に入、濱下り祈祷、夫より板橋村地蔵堂前に至る」(新編相模国風土記稿より)とあります。

 

「江戸時代の居神神社神輿の渡御ルートの一部」

 

また、江戸時代の小田原城は特別な扱いで、本丸に徳川将軍専用の御殿が建てられていた関係で、

 

御成道 ー 大手門 ー 馬出門 ー 銅門 ー 本丸

 

このルートは、小田原藩主も使用できない将軍専用道でした。

 

しかし祭礼日だけは、箱根口門・大手門を開き 町衆が舁く神輿行列の通行を許可し、馬出門内でご祈祷して小田原城下の平安を祈る。

身分制度が厳しい封建社会においてもお祭りを通じて、小田原においても藩主と町衆との交流があり、現代まで守り続けているのです。

 

城下町の誇り 

 

全国には城下町が多く存在し、小田原と同じくお城とお祭りの関係が深い事例もたくさん見られます。

 

「宮津祭は、将棋の駒よ 大手 大手と詰めかける」

 

京都市宮津市も小田原と同じ城下町。江戸時代、大手門を開け祭礼行列の通行を許し、藩主が城内で見物したそうです。

大手とは、大手門のことですが、城下町のお祭りが当時の人にとっても特別な存在であり、この俗謡が現代まで受け継がれている通り、城下町の伝統と町衆の誇りは連綿と続いているのがわかります。

 

「京都府宮津市田辺城と朝代神社神輿」著書から抜粋」

 

「銅門復元と共に撤去された旧住吉橋を渡る居神神社の神輿 北條五代まつりにて」

 

小田原は、大正12年の関東大震災の壊滅的な被害を受け、江戸時代からの歴史的建造物は、無きに等しいですが、

しかし、城下町の誇りと町衆の息吹は脈拍と受け継がれています。

今回は、居神神社創建五百年祭に寄せて、お城とお祭りの深い関係のご紹介でした。