10月の織田家の出来事をまとめます。

 

10月1日

天正3年(1575)10月1日

織田信長は丹波国の片岡藤五郎へ、赤井直正がいまだに出頭しないので退治のために明智光秀を派遣することを通達します。また、光秀へ協力して戦闘に参加することを命令し知行安堵と戦功によっては新恩給与の予定を通達します。

「新免文書」

 

10月2日

天正3年(1575)10月2日

前田利家と佐々成政・不破光治は、無縁所として古跡の越前国高瀬村の宝円寺へ、早速木屋懸を命令し、また不法行為を行う者があればその交名を報告するように命令します。

「宝円寺文書」

 

10月3日

天正3年(1575)10月3日

織田信長は、美濃国岐阜城において陸奥国から届けられた鷹50足のうち23足を召し上げます。

「信長公記」

 

10月4日

天正3年(1575)10月4日

織田信長は細川藤孝へ、越前国と加賀国平定の際の先衆同前の戦功を慰労し、その後に播磨国と丹後国方面の戦陣から情報収集のために飛脚を派遣したことを賞します。

「米田藤十郎氏所蔵文書」

 

10月5日

天正3年(1575)10月5日

織田信長は三好康長へ、本願寺顕如から条目が松井友閑へ届けられたこと、顕如は今後信長に敵対しない意向であることを通知します。詳細は松井友閑に伝達させます。

「南行雑録」

 

10月6日

天正3年(1575)10月6日

塙直政は大和国より山城国槙島城へ帰還します。

「多聞院日記」

 

10月7日

天正3年(1575)10月7日

多聞院英俊は早々に大和国興福寺へ戻り、前日に塙直政が山城国槙島城に帰還したことを知ります。

「多聞院日記」

 

10月8日

天正3年(1575)10月8日

織田信長は、再度戦況を注進してきた細川藤孝へ宇喜多直家の端城を奪取し浦上宗景に守備させたこと、丹波国と丹後国平定については明智光秀からも報告がなされているが、誠せいを被入度々被申越れて喜悦之至であると喜びます。

「細川家文書」

 

10月9日

天正3年(1575)10月9日

織田信長は細川藤孝へ、丹波国方面の件で重ねて詳細な報告を賞し、先ほども明智光秀より注進があり、藤孝からの報告通りであったこと、明日10月10日に上洛する予定であることを通知します。

「細川家文書」

 

10月10日

天正3年(1575)10月10日

織田信長は陸奥国より献上された鷹14足と鷂3足を伴い上洛します。この日は美濃国垂井に宿泊します。

「信長公記」

 

10月11日

天正3年(1575)10月11日

柴田勝家は下野国法雲寺へ、高田宗門であることは織田信長御朱印によって諒承されたことを通達します。

「法雲寺文書」

 

10月12日

天正3年(1575)10月12日

織田信長は近江国永原に寄宿し、新たに架けられた勢田橋を見物するために陸路にて上京します。

「信長公記」

 

10月13日

天正3年(1575)10月13日

織田信長は上洛し二条妙覚寺に入ります。

「信長公記」

 

10月14日

天正2年(1574)10月14日

多聞院英俊は、大和国人が筒井順慶と十市遠長と同盟締結したことを知ります。

「多聞院日記」

 

10月15日

天正3年(1575)10月15日

大和国興福寺は、織田信長の上洛に対して寺官の三学院を京都に派遣します。

「多聞院日記」

 

10月16日

天正3年(1575)10月16日

多聞院英俊は、塙小七郎が山城国槙島城より大和国長柄城へ帰還したことを知ります。

「多聞院日記」

 

10月17日

天正5年(1577)10月16日

松永久秀を倒した織田信忠は、上洛して美濃国岐阜へ下向します。

「兼見卿記」

 

10月18日

天正5年(1577)10月16日

多聞院英俊は、織田信長が右大臣ニ転任に、織田信忠が三位中将ニ昇進することを知リます。

「多聞院日記」

 

10月19日

天正3年(1575)10月19日
織田信長は、京都にて伊達輝宗より名馬がんぜき黒・白石鹿毛2頭と、鶴取りの御鷹2足の献上を受けます。

「信長公記」

 

10月20日

天正3年(1575)10月20日

織田信長は石山本願寺との和睦を締結します。

「信長公記」

 

10月21日

天正3年(1575)10月21日

織田信長は三好康長と松井友閑を御使として、本願寺顕如を御赦免します。本願寺年寄共の平井・八木・今井らは、三好康長を介して信長へ小玉檻・枯木・花の絵3軸と、三日月の葉茶壺を献上し礼問します。

「信長公記」

 

10月22日

天正3年(1575)10月22日

多聞院英俊は、織田信長の命令による当国諸方道作は3間2尺で準備が進行していること、山城国での道作は完成したが田畠が過分に損失したことを知ります。

「多聞院日記」

 

10月23日

天正3年(1575)10月23日

織田信長は上洛した姉小路頼綱の礼問を受けて栗毛馬を献上されます。

「信長公記」

 

10月24日

天正3年(1575)10月23日

塙小七郎は大和国長柄城より山城国槙島城へ帰還します。

「多聞院日記」

 

10月25日

天正3年(1575)10月25日

松井友閑は、伊達輝宗へ織田信長は逸物之鷹と名馬進上をとても喜んでいること、黄金3両を贈ったことを謝します。また来春は与十郎を派遣して礼を申し入れることを通知します。

「伊達家文書」「岡本文書」

 

10月26日

天正3年(1575)10月26日

織田信長は、明智光秀に書状を送付した長宗我部信親へ、阿波国方面での軍事行動を賞してますますの忠節を促します。また字之儀は「信」の字を遣わし、信親と名乗るよう通知します。詳細は明智光秀に伝達させます。

「土佐国蠧簡集」

 

10月27日

天正3年(1575)10月26日

塙直政は河内国金剛寺へ、織田信長御朱印により寺領が安堵されたので、新儀の課役は賦課しない旨を通達します。

「南行雑録」

 

10月28日

天正3年(1575)10月28日

織田信長は、京都二条妙覚寺で京都と堺の数寄仕候者17名を招喚し、千宗易の点前による茶会を開催します。御座敷の飾は三日月の御壺・白天目・つくもかみ・おとごぜの御釜・松島の御壺です。

「信長公記」

 

10月29日

天正2年(1574)10月29日

羽柴秀吉は近江国国友村の藤二郎へ、国友村河原代官職を申し付ける旨を通達します。

「国友共有文書」

 

10月30日

天正元年(1573)10月下旬

織田信長は越前国織田剣神社へ、社領と末社領と社家領を安堵し、臨時の課役を免除します。

「剣神社文書」

 

10月31日

天正元年(1573)10月下旬

織田信長は伊勢国専修寺へ全3ヶ条の禁制を下します。

「専修寺文書」