春の青春18きっぷを使った旅の記録に戻ります。
3回目の青春18きっぷを使って
山梨県甲府市へ行ってきました。
目的はここ
武田氏館
2度目の訪問となります。
前回の記事はこちら
前回は「信玄公祭り」の飾りつけでイマイチだったんです。
プラス城めぐり初期だったので
歴史も城の遺構も分からず
武田家の家紋を見つけて喜んでいた訪城でした。
武田の歴史を知るにつれ
もう一度行きたいと思うようになり
行ってきました~
まずは武田家三代の歴史を簡単に御紹介。
初代武田信虎
1494年(1498年の説もあり)甲斐源氏の17代当主信縄の嫡男として生まれます。
18代当主として家督を継ぎ、混沌としていた甲斐国を統一。
1519年に武田氏館を築城。
甲斐国を統一後は信濃進出を目指すも
志半ばで嫡子・武田晴信がクーデター。
駿府へ追放されます。
2代目武田晴信(信玄)
父信虎を甲斐国から追放し
武田家家督を継ぎます。
1553年信濃をほぼ平定
次は越後を目指すため
武田・北条・今川の三国で甲相駿同盟を結び
後顧の憂いを断ちます。
同盟の証として嫡男・義信は今川家から正室を迎えます。
そして越後上杉謙信と5回にわたり戦いますが(川中島の戦い)
決着着かず。
一方、1560年桶狭間の戦いで今川義元討ち死。
同盟国である今川家は急速に弱体化していきます。
信玄は政策を転換し1568年同盟を破棄。
今川家を攻め滅亡させます。
更に信玄は西を目指しますが
家康との三方原の戦いの後、持病が悪化。
帰らぬ人となります。
3代目武田勝頼
(画像はお借りしました)
武田晴信四男、側室・諏訪御料人の子。
諏訪家を継ぐべく育てられますが
晴信(武田信玄)嫡子・義信が
今川家をめぐり自刃に追い込まれたことから
信玄の跡を継ぐこととなります。
一時は信玄をしのぐほど領土を拡大するものの
1575年長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗。
ここから衰退の一途を辿り
最後はほとんどの家臣に裏切られ
天目山で自刃。
武田家滅亡となります。
この武田三代が住んだのが武田氏館です。
甲府駅からのバスを下車すると武田神社入口
神社の正門
ここが武田氏館の大手門と思っていましたが
違いました。
武田氏館はこうなっており
写真の神社正門はここ
この正門は石垣を切り崩して作られたもので
実際の大手門はこちらでした
現在の大手門です
深い空堀と
高い土塁に囲まれています。
館の内側から大手を見ると
右の通路が大手門。
左の山が土塁。
そしてさらなる備え
大手門の外側です。
破壊された後なので
現在は大手石塁として四角くなっていますが
かつては三日月型の堀があったことが確認されており
武田の築城技術が生かされています。
こちら以外は前回しっかりと見ているので割愛。
武田氏館の後は周辺を歩きます。
武田氏館からすぐ目の前。
信玄ミュージアム
こちらで武田家三代の歴史を勉強
どうする家康のパネルもありました。
信玄ミュージアム近くには
高坂弾正屋敷跡
ここから歩くこと15分ほどの
信玄公火葬塚を見て
帰路につきました。
最後にスタンプです。
続100名城・要害山城スタンプも甲府駅前の藤村記念館で押印。
武田氏館から見える山のいずれかが要害山。
「見た~」と言うことで押してきました~。